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文久3年11月8日(1863.12.18):
【長】家老井原主計、奉勅始末&取調書提出に上京へ。

■長州家老上京・嘆願
【長】文久3年11月8日、家老井原主計は、奉勅始末を提出するため、京都へ出立しました。藩命により、久坂玄瑞・寺島忠三郎・野村和作・入江九一ら14名が随行しました。

●おさらい
文久3年8月18日の政変の報が長州藩に届いたのは8月23日でした。これより先、8月20日に、大和行幸の詔と長州藩主父子上京の沙汰を伝達するために帰家老根来上総が帰国し、22日に世子定広の上京が決まったばかりでした(こちら)。敬親は根来上京して嘆願書を朝廷に提出するよう命じ、根来は29日に山口を出立しました(こちら)。根来は9月13日に大坂に到着しましたが(こちら)、朝廷は彼の入京・嘆願を許さず、京都留守居役乃美織江に嘆願の趣旨を聴取し、さらに政変当日の毛利元純らの挙動を取り調べるよう命じました(こちら)。在坂藩士の中には押して上京すべきとの意見もありましたが、結局、朝命に従うことになり、根来は嘆願書を乃美に託しました(こちら)。乃美は、同月23日、勧修寺家を通して嘆願書を提出しました。

その一方で、長州藩は、9月16日に世子定広の上京を決定し(こちら)、10月1日には「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達し(こちら)、同月10日には、藩士に世子随従を予め命じ、決意を固めさせていました(こちら)。(とはいえ、藩庁の大勢は即時の率兵上京は視野に入れておらず、真木和泉が諸卿に率兵上京三策を献ずる(こちら)など六卿の周辺では進発論が高まるのをみて、彼らが暴発せぬように六卿を三田尻から山口に移すなど、慰撫に努めていました(こちら)このような状況下、根来は所期の目的である入京して直接朝廷に訴えることを果たせぬままに10月23日に山口に帰り着きました。

長州藩では、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達そうと、今度は家老井原主計に「奉勅始末」と毛利元純(支藩清末藩主)等の挙動取調書とを授けて上京させることにしたのでした。

「奉勅始末」:長州藩が嘉永6年の黒船来航以降、国事に尽力した顛末(幕府への建議、公武の間の周旋、攘夷奉勅、親征奏請など)が述べられたものです。

取調書:去る9月17日に朝廷が京都留守居役を通して家老根来上総に与えた詰問書(こちら)への弁流で、次のような内容です。(番号は便宜的に管理人がつけました)
  1. 八月十八日に毛利元純以下多人数が御所近くに詰めたのは、宮中非常時と知り人数を差し出したところに他藩親兵が集まったからである。この際、武器を持ち運んだのは、当時御所廻りは既に武装兵が警衛していたので、相応の用意をしたものである。もっとも御所辺は憚りがあるので、大砲・小銃は外へ向けて準備し、甲冑は着用しなかった。
  2. 当日、大仏(妙法院)に引き取ったのは、屋敷が手狭だからである。
  3. 七卿を連れ帰ったのは、万一予期せぬ事があっては皇国の命脈に関わり、叡慮も安らかでないと存じたので、ひとまず引き取った上、忠誠の心事を明らかにし、復職の嘆願に及ぼうとしたためである。 国許まで連れ帰ったのは、攘夷の儀は別けて御依頼との沙汰があり、藩国の海防に尽力いたすためである。

関連:■「開国開城」「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変」「長州処分」「長州進発&家老の上京・嘆願」■長州藩日誌文久3
参考:『修訂防長回天史 四上』p558-561, p568(2004.12.21, 2005.1.6)

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