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文久2年11月10日(1862.12.30)
【江】攘夷奉勅:一橋慶喜、病と称して登城停止

■攘夷奉勅問題(慶喜、2度目の登城スト)
【江】文久2年11月10日、開国論の後見職一橋慶喜は風邪と称して登城を停止しました。

そのときの慶喜の心情は「春嶽等と事を共にし心にもなき攘夷論に雷同して勅を奉ぜんは、天聴を欺もうするに等しく、其政策公明を欠くのみならず、一旦勅諚を拝受し置きて、後に京都に周旋せんなどいえるは、全く独り極めの事にて、成功は得て期すべからず、一日の偸案(ちゅうあん)に百年の悔を遺さんよりは、今に及び手引退するに如かず」というものだったそうです。

<ヒロ>
慶喜は開国論者です。幕議は、一時は慶喜の「幕府をすでになきものとみる」開国論(9月30日)を容れて開国奏上に決まりました(10月1日)が、山内容堂の[攘将軍となりかねない」との入説(こちら)で、攘夷奉勅に一転しました(10月20日)。慶喜はこのとき反対こそしなかったものの、自分には定見がないとして後見職辞表を提出し、登城を停止しました(10月22日)。その後、春嶽らの説得で登城を再開しましたが、別勅使到着、幕府の攘夷奉勅決議(11月2日)と進むうちに、再び辞職を決意したのでした・・・。

参考:『徳川慶喜公伝』(2003.12.30)
関連:■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」「親兵設置問題」■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題

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