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文久2年11月2日(1862.12.22)
【江】攘夷奉勅:幕府、攘夷奉勅を決議。

■攘夷奉勅
【江】文久2年11月2日、幕府は、開国説が行われる時機もあるだろうと、攘夷奉勅を決議しました。

その大意は<攘夷と開国とはその目的相反するもののようだが、戦を開くには彼を知り己を知ることが肝要であり、開国をしなくては攘夷の実行をし得ないのは勿論である。故に目下強いて開国説を主張しなくても自ずからその説の行われる時機もあるだろう>というものでした。

<ヒロ>
破約攘夷か開国かという国是をめぐって、幕府は松平春嶽の決戦覚悟の破約攘夷(→公議→自主開国)論(こちら)⇒一橋慶喜の幕府をすでになきものとみる開国論(こちら)と揺れ動きました。山内容堂の脅しともとれる入説(こちら)もあり、10月20日、攘夷奉勅と決まりました(こちら)が、今度は、慶喜が、自分には定見がないと後見職の辞表を提出しました(こちら)。春嶽らの度重なる説得に、慶喜は勅使の江戸到着前日の26日、ようやく登城を再開しました(こちら)。それで、改めて、国是について幕議が開かれたのでしょうか。

この日の幕議の大略は、春嶽/小楠の決戦覚悟論とはかけ離れており、いつか開国説が実現することもあるだろうとの楽観的な想像に基づいていました。この幕府の姿勢は、まさに、先に慶喜が批判したように、「姑息の空想」を頼みとしてその場逃れのことを考えている(こちら)としか思えないのですが・・・。(う〜む。すっかり大開国論びいきの管理人・・・)。

参考:『続再夢紀事』一(2003.12.22)
関連:■テーマ別文久2「第2の勅使(攘夷督促&親兵設置)東下」「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題

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