2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月30日(1864年2月7日)
【京】一橋慶喜・松平春嶽(越)・松平容保(会)
・山内容堂(土)・伊達宗城(宇)、
朝議参豫に任命される。

■朝廷参豫会議へ
【京】文久3年12月30日、朝廷(伝奏)より、一橋慶喜(将軍後見職)・松平春嶽(前越前藩主)・松平容保(京都守護職/会津藩主)・山内容堂(前土佐藩主)・伊達宗城(前宇和島藩主)の五候に「参預あるべき」の沙汰が下りました。

なお、彼らは、朝議への参豫を命ぜられたのであり、「参豫」という官職に就いたわけでありません。朝議の正式メンバーだったかどうかについて、佐々木克氏は「臨時の恣意的なものではなく、朝議の正式メンバーとして扱われたといたと考えたい」としています。(『幕末政治と薩摩藩』)

<ヒロ>
参豫会議の定義
参豫諸侯は、文久4年/元治1年1月〜3月にかけて朝議に参豫しましたが(仮に朝廷参豫会議と呼ぶ)、それ以外にも、二条城で幕閣らと会合を行い(仮に二条城会議と呼ぶ)、中川宮邸に集まりました()。また参豫諸候だけでも会合をもち(仮に参豫集会と呼ぶ)、国政を評議しました。一般に参豫会議というと朝廷参豫会議を指すのですがが、二条城会議や参豫集会も参豫会議といわれることがあります。紛らわしいので、このサイトでは、基本的に、朝廷参豫会議、二条城会議、参豫集会とわけて使うことにしています。

参豫の沙汰があったのは、病を理由に上京を延期していた山内容堂の着京(こちら)の翌々日になります。容堂の入京を待っていたことがうかがわれますよね。

さて、そもそもこの参預(参謀から名称変更)は、朝廷の「優柔不断」(『徳川慶喜公伝』)を解決するために「賢明諸侯」を朝議に加えようと、薩摩の島津久光が主唱していたもので、諸侯の承諾を得て、薩摩藩が周旋していました。しかし、その島津久光は任命されませんでした。実は、久光は当時、無位無官でしたが、この周旋が己の官位を望む下心のためだと疑われるのが心苦しいとの理由で、任命を辞したのだそうです。(注:無位であれば参内に差し支えるため、参預に就くためには官位が必要になるのです)。しかし、久光を必要とする慶喜・春嶽は官位宣下を周旋し、やがて久光は従四位下左近衛少将に任ぜられて参預となり、大隈守にも任命されることになります。

関連:■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」 ■テーマ別文久3年「参豫会議へ」「朝議参豫の動き」守護職日誌文久3 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」薩摩藩日誌文久3 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『続再夢紀事』二・『徳川慶喜公伝』2・『幕末政治と薩摩藩』(2001/2/27、2007/12/10)

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