2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月25日(1864.2.2) 
【京】二条城にて初の有力諸侯会議:朝議「参謀」の名称等を協議
【京】伊達宗城、松平春嶽に鎖港使節派遣延期・諸侯会議で開鎖決定を入説
【京】越前藩主松平茂昭上京/
【肥後】藩内に脱藩者宮部鼎蔵・河上彦斎・松田重助らの捕縛を命じる

■参豫会議へ
【京】文久3年12月25日、在京有力諸侯による二条城会議が開かれました。参加者は一橋慶喜(後見職)、松平春嶽(前越前藩主)、松平容保(守護職・会津藩)、長岡良之助(肥後藩三男)、及び黒田慶賛(福岡藩世子)の5名でした。伊達宗城(前宇和島藩主)、島津久光(薩摩藩国父)も招かれましたが欠席でした。

会議は同月22日の慶喜と春嶽の話し合いの結果(こちら)を受けたもので、この日の議題は、
  1. 朝廷がかねてより内陳のある諸侯を「参謀」に任ずる一件。時節柄、やむをえないとして、その名称は平易なものに変えるべきでないか。
  2. 各藩家臣が集会して議論する制度を設けるという案は妥当かどうか。
でした。

参加諸侯に異論はなかったものの、伊達・島津が欠席だったのでそのまま散会となりました。

関連■開国開城「後見職・総裁職の上洛と攘夷期限約束」政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年「参豫会議へ」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■徳川慶喜日誌文久3
参考:『続再夢紀事』二p308-309(2001/2/27)

■国是決定&横浜鎖港談判使節
【京】文久3年12月25日、伊達宗城は、松平春嶽に鎖港使節派遣延期・諸侯会議における開鎖決定を提案しました。

上記会議の終了後、春嶽は長岡良之助を伴って伊達宗城を訪ねました。会議で話し合われた二項目については宗城にも異論がなく、久光へは良之助が相談することになりました。

このとき、宗城は、
<鎖港談判として外国に派遣される使節は本月22日品川を出航して暫時長崎に滞留の上、さらに日を決めて出立するというが、今度、諸侯会同の上は開国・鎖国の可否をも議論せざるをえない。その可否を議論せねば、開国を可とするに至るかもしれず、この議が一決するまでは使節を長崎に留めおいてはどうか。もっとも、このことは島津家においても同意である>
と述べました。春嶽は、宗城の意見に賛成し、春嶽から慶喜に申し入れることになりました。

<ヒロ>
衆議・公議による国是決定は、かねてからの春嶽(&前越前藩顧問横井小楠)の持論でもあります。越前藩は、この年の夏にも、薩摩藩・肥後藩などと提携して挙藩上京し、朝廷に藩論を訴える一種の政変を計画しましたが、このときも外国人を交えた全国会議による国是決定が、賢明諸侯の大政参加と並んで大きな柱でした(こちら)

関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷VS開国上奏」/テーマ別文久3年「横浜鎖港交渉」「越前藩の挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 
参考:『続再夢紀事』二p308-309(2005.2.3)

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