2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月28日(1864.2.5)
【江】将軍再上洛:家茂、軍艦翔鶴丸で海路上京へ。(幕府・諸藩の大船団(12隻))
【京】参豫会議へ:前土佐藩主山内容堂入京
【京】新選組芹沢派生き残り、野口健司の死

■将軍再上洛
【京】文久3年12月28日、将軍徳川家茂は軍艦翔鶴丸(勝海舟同行)で品川を出航し、海路上京の途に着きました。

関連:◆テーマ別文久3年「将軍・後見職の再上洛
参考:『維新史料綱要』(2005.2.5)

■参豫会議へ
【京】文久3年12月28日、前土佐藩主山内容堂が入京しました

8月の禁門の政変(こちら)後、クーデター側は公武合体派(開国派)の有力諸侯を召しだすことにし、同月28日には、山内容堂・伊達宗城・鍋島斉正・島津久光に上京の朝命が下りました(こちら)。容堂は病を理由に上京を延期していましたが、10月6日には、島津久光の使者高崎猪太郎が高知を訪れて、上京を催促し、同月22日と26日には前越前藩主松平春嶽も上京催促の書簡を遣わしました(こちらこちら)。さらに11月18日には近衛忠熙前関白父子から速やかに上京せよとの勅意が伝えられるにいたって、容堂は、ついに上京することを決め、12月21日に高知を出立し、汽船南海丸で海路上坂していました。

関連:◆開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」◆テーマ別文久3年「参豫会議へ
参考:『続再夢紀事』二、『維新土佐勤王史』、『人物叢書山内容堂』(2005.2.5)

浪士組/新選組
【京】文久3年12月28日、芹沢鴨らの暗殺から約3ヶ月後、芹沢派の唯一の生き残り、野口が死去しました(壬生寺墓碑)。

<もっと詳しく>
結髪しているところを原田左之助が背後から不意に刺殺したのだといいます(西村兼文『新撰組始末記(壬生浪士始末記』)。また、「つまらぬことから詰め腹をきらされるようなことになった」との説もあります(八木為三郎の回想とされる話『新選組遺聞』)。

なお、光縁寺の過去帳である「往詣記」には野口の死は27日であるとされていますので、27日に死去して28日に埋葬された可能性もあります。また、往詣記には野口の旅宿を前川邸であるとしており、野口が前川邸屯所に寝起きしていたことをうかがわせます。

参考:『新撰組顛末記』、『新選組戦場日記』、『新選組日誌上』所収の関連史料、『新選組遺聞』(2000/2/5)

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