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文久3年1月2日(1863年2月19日)
【京】守護職松平容保、初めて参内
【京】長州藩主父子の帰国奏請/
【江】将軍上洛延期運動:薩摩藩士吉井幸輔着府。
政事総裁職松平春嶽を訪ね、近衛関白の密書を渡す

守護職着任
【京】文久3年1月2日、京都守護職松平容保が初めて参内し、天盃(てんぱい:天皇から贈る酒盃)、及び御料の御衣(ぎょい:天皇の服)を与えられました

この日、容保は新年を奉賀するために上京後、初めて参内していました。小御所で孝明天皇に拝謁した容保は、天杯だけでなく、戦袍か直垂に作り直すように緋の御衣を賜ったのです。武人に御衣が下賜されたのは異例のことで、徳川幕府になってからは空前のことであったそうです。容保が朝廷からこれほど歓迎されたわけは、前年の勅使東下の際に、幕府の勅使待遇の礼を改めることに尽力した功によるものでした(京都守護職小史:勅使待遇改正)。

<ヒロ>
後に「勤王の志士」と呼ばれる人々を弾圧する立場に立ち、明治維新では「朝敵」にされてしまった容保ですが、上京当初は朝廷での評判もよく、また孝明天皇は一貫して容保を支持していました。なお、『京都守護職始末』など会津本を読んでいると、容保だけが受けた特別待遇のような印象を受けるのですが、実は、孝明天皇は翌3日に参内した長州藩主毛利敬親にも御衣を与えています(こちら)。ほんと、毎度思いますがが、会津側の資料だけ読んで会津藩をわかった気になっちゃいけませんネ。

参考:『会津松平家譜』・『京都守護職始末』・『徳川慶喜公伝』2(2001.2.19)

■長州藩
【京】文久3年1月2日、長州藩主毛利敬親・世子定広が帰国を朝廷に願い出ました。攘夷の方策もようやく定まったので、内政(国許の海防強化など)の処置もしたいというのがその理由でした。

<ヒロ>
先日来、京都では公武合体派の薩摩藩による長州藩排除運動が展開されており、三条実美が抵抗をしているのに、なんと藩主父子が自ら帰国を願いでるとは!!長州藩はこの動きに気づいていなかったんでしょうか。『徳川慶喜公伝』でも「意外なりけれ」と驚いています。

参考:『修訂防長回天史』・『徳川慶喜公伝』2(2001.2.19)
関連:◆12月26日:【京】宇和島藩主伊達宗城・因幡鳥取藩主池田慶徳・阿波徳島藩世子蜂須賀茂韶、近衛忠煕関白に在京諸侯退去と公武合体の国是決定を建白。(長州・土佐の排除が目的) ◆12月28日:【京】伊達宗城・池田慶徳ら、中山忠能・三条実美らに在京諸侯退去を主張
■将軍上洛延期運動
【江】文久3年1月2日、薩摩藩吉井幸輔が政事総裁職松平春嶽を訪ね、近衛忠煕関白の密書を差出しました

吉井は藩主の父島津久光から将軍上洛延期運動の命を受けて、前年12月9日に大久保利通(一蔵)とともに鹿児島を出発していました。22日に京都に着いて関白に久光の内意を告げると関白はこれを嘉納し、24日には関白・議奏の中山忠能・正親町三条実愛の三人で中川宮(当時青蓮院宮)邸に集って内談の上、即日奏聞すると、すぐに勅許(天皇の許可)が下りたそうです。その後、関白は天皇の考えを大久保に言い含め、春嶽への書簡を託したので、大久保と吉井は25日に京都を出発しましたが、吉井は途中で大久保に別れ、道を急ぎ、この日江戸に到着しました。吉井が道を急いだのは、春嶽が7日に江戸を発して上京すると聞いたからで、出発前に関白の書状を伝達しようとしたからでした。春嶽が吉井に会うと、吉井は仔細は大久保が到着の上で申上げるからと、大略だけを述べて退邸したそうです。

関白からの書状には<将軍上洛については天皇のお考えがあり、大久保に内々に言い含めたので、お聞きになり、腹蔵のないお答えを承りたい>とありました。

参考:『続再夢紀事』一(2004.2.21)
関連:■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」■テーマ別薩摩藩の将軍上洛延期運動」 「京都武力制圧VS幕薩連合の公武合体派会議「薩摩藩の守護職任命運動」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」幕末薩摩藩かけあし事件簿

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