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元治2年1月28日(1865月2月23日)
【京】徳川慶勝、一橋慶喜に長州処分のため有力諸侯召集を説く
【京】会津藩、尾張藩に諸侯招集の猶予を求める。

☆京都のお天気:快晴午後晴雲交。寅刻地震頗長大。(嵯峨実愛日記)

>将軍上洛&有志諸侯召集問題

■尾張藩の有志諸侯召集運動
【京】元治2年1月28日(2.23)、征長総督・前尾張藩主徳川慶勝は、尾張藩本陣を訪ねた禁裏守衛総督一橋慶喜慶喜に、有力諸侯6〜7人を召集して長州処分を討議することを求め、慶喜は同意しました。

尾張藩士若井鍬吉が1月30日に越前藩士毛受鹿之助に語ったところによれば・・・
長防は既に謝罪を申し出たので、この上は相当の御処分を仰せ出されるだろう。諸侯の中にも彼是意見を懐く者もいるとのことなので、この際、「賢明の聞えある大諸侯六七藩を京師に召集し、其意見を聞取り、然る上決定」されるのがよい。
(そのように考えていたとのことで)それは誠に同意である。
(↑越前藩士中根雪江の日記の関連部分のてきとう訳)

天下の形勢が容易ならぬ時節であり、差し当たり「有名之諸侯」を召され、論議を定めてそれを「公儀之御趣意」となされるほかない。もっとも「天下幕政ノコト」を議すというのではなく、「奸吏等」のことがあって申し出るのではない。「長征之事」についてのことである。「有志ノ諸侯」と申しても、「大藩六七藩」だと考えている。
何分そうでなくては叶わぬ、何分、その通りにいたしたいものだ。
(↑越前藩士本多修理の日記の関連部分のてきとう訳)

(おさらい)
徳川慶勝は、1月24日の上京に際して、朝廷に対し有志諸侯召集を内願していました(こちら)。また、これに先立ち藩士若井鍬吉が上京して諸侯召集を根回し(肥後藩主弟長岡良之助と薩摩藩士西郷吉之助の書状を見せつつ)、一橋慶喜、近衛忠房、小松帯刀の同意を得ていました(こちら)。ただし、慶喜は、その後、(恐らく会津藩・桑名藩の働きかけで)意見を変え、1月25日には会津藩・桑名藩の「列藩召不宣」の建言を行いこちら)、27日付の良之助宛書状では「列藩召相止候」と記していました。

<ヒロ>
慶喜は、尾張藩士若井鍬吉による1月上旬の諸侯召集周旋時に諸侯召集に同意しているので、今回は根回しの結果を受けたトップ会談というところなのでしょうか。あるいは、慶喜が、1月25日、会津藩・桑名藩とともに「列藩召不宣」の建言をしたという情報を尾張藩も聞きつけたのでしょうか(その割には建言の話がでてこないのですが)。

それにしても、またまた諸侯召集論に転じた慶喜です。その本意はどこにあるんでしょう・・・。

慶喜は征長の処置について、西郷に踊らされている尾張藩に不満を懐いているので、西郷が裏にいることが明白な諸侯召集案に賛同するというのが合点がいかないです。自分が主導すれば薩摩藩の思惑に乗らずにすむと思っていたのでしょうか。でも、諸侯召集を主導すればますます江戸の嫌疑を受けるような・・・。老中本庄宗秀と阿部正外の上京が近づく中、リスクがありすぎる気もしますが、あるいは、元治1年11月に小松帯刀に使嗾された諸藩・朝廷と連携した政変(こちら)が念頭にあったんでしょうか??それとも、代案である容保の東下によって将軍上洛が実現する可能性も低そうなので、単に意見が定まらなかったんでしょうか?ナゾです。

■会津藩の諸侯召集反対・容保東下運動
【京】元治2年1月28日(2.23)、会津藩は、尾張藩に対し、(外様)諸侯召集は幕府への諸政委任を有名無実化しかねないと猶予を申し入れ、将軍上洛のために藩主松平容保自身が東下する決心をしていると(改めて)伝えました。

尾張藩士若井鍬吉が1月30日に越前藩士毛受鹿之助に語ったところによれば・・・
会津藩 目今、諸侯を京師に召集されるのは甚だ宜しくない。なぜなれば、近来、朝議と幕旨はともすれば齟齬し、現に征長については、朝廷はもっぱら大樹公の進発を望まれたが、今日にいたってもなお進発されず、そのため、近日の朝議では、<昨年天下の政務を挙げてさらに幕府に委任されたが、爾来その施政を観察するに朝議に背馳するものが少なくない。ことに征討軍は国家の大事なので大樹の進発を望まれたが矢張り進発がない。これでは今後は天下はどうなり行くか実に頼み甲斐がない次第である。この上は、有為の諸侯を召集して事を議論させ、朝廷より政令を発するほかあるまい>との論があると承っている。既にそのような朝議がある今日、大樹公の上洛を「閣き」(ママ)諸侯を召集すべきなどの議論を立てられては徳川家の命脈は今回限り絶え果てるだろう。故に、この際、肥後守(=容保。慶勝の異母弟)が自ら江戸に赴き大樹公の御上洛をお勧め申し上げる決心である。
尾張藩 諸侯召集と申したのは長防の処分に関する意見を聞き取るべきだとの主意であり、百般の政務を議論させるのではない。(と散々弁解したが会津藩は納得しなかった)
(↑中根雪江の日記の関連部分のてきとう訳)

会津藩 外様を京都に召集することは暫く御猶予願いたい。なぜならば「近ク朝ト幕ト御意味違多ク」、第一、征長への(将軍)御進発等もなく、近日の朝議は、(幕府に諸征を)御委任になったが、これでは叶わぬことであり、いよいよ(将軍)御進発もないのであれば、外様を召して天下の議論を聞き、朝廷より万端御指図成されると申すようにもなるべき勢いである。そうなっては(諸政委任が)叶わないので、肥後守(=容保)が参府仕り、尽力仕り、(将軍に)御上洛をお勧め申し上げたく、精々周旋仕りたい。(有志諸侯召集の)御論もごもっともだが、そうなっては徳川の天下はこれきりと申すものである。
尾張藩 「天下ノ事」は尾にて議しは致し申さず、(幕府)奸吏等に申すような事は関係せぬことで、それは会津始めの(やっている)事である。尾の趣意は長防について会議を始めたいと申す趣意である。
(↑本多修理の日記の関連部分のてきとう訳)

(おさらい)
慶勝は、1月24日の上京に際して、朝廷に対し有志諸侯召集を内願しました。ところが、会津藩は政令二途を招きかねない諸侯召集には反対で、将軍上洛周旋のための容保の東下を内願して対抗しました(こちら)。1月26日には、慶勝が容保東下中止の説得のため、会津藩公用人野村左兵衛を召し出すとともに尾張藩士田宮如雲を会津藩邸に派遣しましたが、不調に終わっていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』四p23-26、『越前藩幕末維新公用日記』p174-175(2019/1/20)

■肥後藩の情報収集
【京】元治2年1月28日(2.23)、一橋家臣川村恵十郎(正平)を訪ねた肥後藩留守居役上田久兵衛は、慶喜が、27日付の肥後藩主弟長岡良之助宛返状にて「列藩召は相止候」なので「御安心」するよう伝えたことを打ち明けられました。

久兵衛が川村からきいたところによると、良之助の慶喜宛書状の内容は、諸候召集があっても自分は出京しない(「列藩召あって公子を召とも御出京なし」)というもので(久兵衛は良之助の書状の内容について「余が議論と符合」と喜んでいます)、それに対し、慶喜は、27日付返信で、諸藩召集は中止になったので安心するよう、また時宜によっては是非にとの依頼もあるのでそのときは出京してほしいと伝えたとのことでした。

(おさらい)
久兵衛は、1月24日に川村を訪ねて慶喜の諸侯召集の動きを批判していました(こちら)。また、1月26日には、六条有容父子から、慶喜が前日(25日)に会津藩・桑名藩とともに「列藩召不宣」の建言をしたという情報を得ていました(こちら)

<ヒロ>
「余の議論と符合」について。久兵衛は、前元治1年12月1日に、二条関白から、<将軍進発がなく困っている。(将軍進発促進のために)良之助を上京させてくれないか>と相談された際、<関東から疑惑をもたれている時節、諸侯の中から召命・御相談などされては公武が隔絶するでしょう>と反対したことがありました。「余の議論と符合」というのはこのことを指すと思います。

参考:上田久兵衛の日記『幕末京都の政局と朝廷』p245(2019/1/20)

関連:■テーマ別慶応1「将軍進発・有力諸侯召集問題」

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