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元治2年1月29日(1865.2.24)
【京】中川宮、二条関白に尾張藩の諸侯召集論は「非」、会津藩の容保東下論は「是」と伝える
【京】会津藩公用人野村左兵衛、二条関白邸で慶喜に外様諸侯召集猶予を求め、慶喜承諾。
野村左兵衛、議奏正親町三条実愛に時勢と「両敬」について相談
【越】松平春嶽、近衛前関白に書を送り、慶喜の江戸召喚反対(将軍上坂までの滞留)を入説p22-23
【江】薩藩柴山良助、報告書に、老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京とその目的(慶喜召喚要請と将軍上洛中止の説明)、
幕府の復古的政策への諸藩の不満等)を記す

☆京都のお天気:晴陰余寒厳 (嵯峨実愛日記)

>将軍上洛&諸侯召集問題
■朝廷の動き
【京】元治2年1月29日(2.24)、二条関白は中川宮に、明30日、尾張藩の有志諸侯召集の内願か会津藩の容保東下の内願かの評議をするので参加するよう求めました。

中川宮は二条斉敬関白に対し、尾張藩の有志諸侯召集は「非」であり、会津藩の容保東下は「是」であるとの意見を伝えました。

この日、二条関白は中川宮に使いをやり、「尾老より諸藩召内願切迫又会より東下切迫に申入、仍て明日ハ御評議」をするので是非参内するよう伝えました。中川宮は、返書において、尾張の論を「非」、会津の論を「是」であるとし、参内は所労でできないと記したそうです。

その後、中川宮邸に会津藩公用人倉沢右兵衛がやって来たため、中川宮は倉沢を通して、会津藩の願い通り容保に暇を与えてほしいと、二条関白に改めて申し入れました。

(中川宮の日記のてきとう訳)
・尾老(=徳川慶勝)の「諸藩召内願」の趣意は、国家の件を論ずるというのではなく、征討諸藩を朝廷が召集して、防長の処置を尋ねるようにとのことである。
・会中将(=松平容保)の存意は、諸藩を召せば、防長の件だけではなく「天下之義彼是議論相立」って、御為に成らぬ、よって(容保が東下して)大樹(=将軍)が早々に上京するようにし、(そのために)「姦吏」を退けたい、さもなくば大樹の職掌が立ちがたく、暫く「諸藩召」を延引してほしいとのことである。
・自分の「存寄」は次の通りである。(朝廷は)大樹へ去年の春に(諸政を)委任しており、(その際に)殊に防長の件と七人(=七卿)の処置をお任せになり、朝廷において「御取イロイ」(=御取扱い?)はないことを御沙汰になった。ゆえに、朝廷より、尾老の願いを「御取イロイ」になっては「尾老モ不相済、朝廷モ不為遊御済次第」かと存じる。ついては会津の願い通り御暇になるよう分けて願いたい。

<ヒロ>
中川宮と会津藩、相変わらず、がっちり手を組んでいますね。(二条関白は優柔不断、一橋慶喜は尾張と会津の間で二転三転(ニ心?)してますが)。容保東下の件では、これまで、公用方の広沢富次郎が中川宮への連絡係を務めていました(1/24)(1/27)。ちなみに、倉沢右兵衛は、元治1年5月頃から中川宮に貸し出されている公用人です。同年7月18日夜、禁門の変直前に親長州派が突然参内した際には、中川宮の使いで会津藩邸に急を知らせています(こちら)

(おさらい)
第一次征長戦(幕長戦争)は長州の服罪によって元治1年12月末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:会津藩主松平容保の実兄)が入京していました。慶勝は幕府への報告において処分をは委ねるとしていたものの、(肥後藩主弟長岡良之助や薩摩藩士西郷吉之助の入説もあり)征討諸藩の意見も聞くべきだと考えていました。自らの上京に先立って、藩士若井鍬吉を上京させて朝廷による有志諸侯召集を周旋させた結果、鍬吉は一橋慶喜、近衛忠房、薩摩藩(小松帯刀)の賛同を得ましたが、二条関白・中川宮・会津藩の同意を得ることはできませんでした(こちら)

一方、朝廷は、前年から征長へ将軍の進発を督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。それどころか、1月15日、幕府は、長州処分は江戸にて行うので今回は将軍は上洛する必要がない、と上洛延期を布告しました(こちら)。ところが、1月18日、朝廷は将軍に長州処分のために速やかに上坂するよう命じました(こちら)

慶勝は、1月24日に上京し、朝廷に対し有志諸侯召集を内願しましたが、これに猛反発したのが会津藩でした。会津藩は、朝命に反した将軍上洛延期(実質中止)も政令ニ途を招く有志諸侯召集も幕府にとっての一大事だと考え、容保自身の東下・将軍上洛周旋を内願して、諸侯召集の動きに対抗しました(こちら)。慶喜も、(恐らく会津藩・桑名藩の働きかけで)意見を変え、25日には会津藩・桑名藩とともに有志諸侯召集反対(「列藩召不宣」)の建言を行いました(こちら)。ところが、慶喜は、28日に慶勝から有力諸侯召集を入説されると、またまた意見を変え、同意に転じていました(こちら)

参考:『朝彦親王日記』一p124-125(2019/1/26)
■会津藩の動き
【京】元治2年1月29日(2.24)、禁裏守衛総督一橋慶喜が二条関白を訪れていたところ、会津藩公用方野村左兵衛が出会し、将軍上洛周旋のための藩主松平容保の東下と諸侯召集の20日間の猶予を懇請しました。

翌1月30日に尾張藩士若井鍬吉が越前藩士毛受鹿之助に語ったところによれば、左兵衛と慶喜のやりとりはこのような感じでした。

(↓越前藩士中根雪江の日記のてきとう訳)
左兵衛 御暇さえ下していただければ肥後守は速やかに江戸に下り、大樹公の上洛を促します。諸藩召集の儀は幾重にも御猶予ください。肥後守の東下を許していただければ二十日間で必ず帰京して江戸の模様を復命いたします。
慶喜 左様までに決心した事ならば、切迫の今日とは申すものの、二十日間を待てないとも申しがたい。
(↓越前藩士本多修理の日記のてきとう訳)
左兵衛 何分、外様を召すことは是非ご猶予ください。「公武ノ間ニ物出来候テハ不相済」、肥後守が参府仕り、(将軍)御上洛を実現させたいと決心仕っています。「関白様ニテ、幕ノ御委任ハ止メルと申様ニテハ不相済」と存じます。ただ参府のことを御承知さえ下されば、すぐに御暇の参内をして一日で出立し、二十日の間に御返事をいたしますので、何卒御猶予くださいますよう。
慶喜 それほどの決心ならばよい。二十日待てぬということではない。

諸侯召猶予を検討することにした慶喜は、その線で、尾張藩に相談したところ、尾張藩も了解しました。

慶喜は、また、二条関白に対しても、容保の東下の決意が固いので、その願い通り、暫時暇を与えるべきだと申し出ました。

<ヒロ>
会津藩が必死です。一度は諸侯召集反対に転じた慶喜が、前28日、慶勝の説得で召集に賛同したことが伝わったのでしょうか。明30日に朝議が行われることも聞きつけたのかもしれません。この日、中川宮が二条関白に対し、二度にわたって、尾張の論は「非」・会津の論は「是」とする意見を伝えています。時系列は不明ですが、もしかすると、それも慶喜の判断に影響したかもしれないですね。

それにしても、尾張藩若井鍬吉情報@越前藩の記録だけみていると、慶喜はずっと諸侯召集派で、この日会津藩に迫られていたしかたなく容保東下に同意したという風で、尾張藩と会津藩の間でふらふらしたようにはまったく見えないという不思議!

(おさらい)
征長総督慶勝は、1月24日の上京に際して、朝廷に対し(長州処分討議のための)有志諸侯召集を内願しましたが、会津藩は政令二途を招きかねない諸侯召集には反対で、将軍上洛周旋のための容保の東下を内願して対抗しました(こちら)。1月26日、慶勝は容保東下中止の説得のため、会津藩公用人野村左兵衛を召し出すとともに尾張藩士田宮如雲を会津藩邸に派遣しましたが、不調に終わっていました(こちら)

参考:『続再夢紀事』四p27、『越前藩幕末維新公用日記』p175、『朝彦親王日記』一p127(2019/1/26)

【京】元治2年1月29日(2.24)、会津藩公用人野村左兵衛が議奏・正親町三条実愛(嵯峨実愛)を訪ね、「時勢之事」と「両敬取扱」について相談しました。

公刊されている嵯峨実愛日記には、単に、「野村左兵衛来面談時勢之事且両敬取扱之義談申之来月一日使可贈答約了」とだけあるのですが、大日本維新史料(綱要DB)の嵯峨実愛日記の方は、「時勢之事」について詳しく書かれています。
一、巳半(=午前11時頃)過退出。一、野村左兵衛来談之分。
一、肥後守東下決心ニ付、可尽力頼ノ事。
一、右ハ尾州折合村(付?)人心安堵サヘ有之候ヘハ無異議旨示了。明日可答由之。
一、衆心不安  上同上ニ付而ハ先不被行■(か)ノ事。一、一橋桑等も引留候心ノ事示了。今日橋より尾ヲ可説由ノ事。
一、肥後守東下一左右迄召御見合、尾へ説得ノ事、殿下以下同上ノ事申聞了。一、同上ニ付而ハ重キ 勅命ヲ受、於東手ザシナラヌ様願度由ノ事。一、近来心付之事申立候処、不被行間如何之旨示置了。一、尾申立も尤然ル処此所ニ而召候ヘハ順序不立、幕吏限故、先尽力願ノ由ナリ。
(※句読点は適当。適宜当用漢字を使っています)

<ヒロ>
ちなみに、翌30日、正親町三条実愛は、二条関白に野村左兵衛の「言談」を「巨細申入」れたそうです。

それにしても、嵯峨実愛の日記って、公刊版と大日本維新史料版に書いてあることが異なることが、ちょくちょくありますねー。比較したかたちで整理してきてないので分析できないけど、公刊時に都合の悪いこと?が割愛されたり編集されたりしたんでしょうか。(たぶん、どこかで誰かが研究してるんでしょうが、素人にはみつけられず・・・)

この日の出来事としては、公刊本にある「両敬」にも興味あります。「両敬」って、前年の2月に容保が二条家と結んだ「両敬の約」(「両敬相敬し、親交姻戚に亜くなり」という関係)のことですよね(こちら)?『京都守護職始末』や『七年史』や『会津松平家譜』には二条家との両敬は書いてあるのに正親町三条家については書かれてないんですよ。実愛は、後に、討幕派に転じちゃったので、旧会津藩士としては記録として後世に残したくなかったんでしょうか??

参考:『嵯峨実愛日記』一,、嵯峨実愛日記1月29日条(綱要DB1月30日条 No6)(2019/1/26)

■肥後藩の容保東下反対運動
【京】元治2年1月29日(2.24)夜、肥後藩留守居上田久兵衛は、会津藩公用局の諏訪常吉に容保東下を反対しましたが、聞き入れられませんでした。その後、藩内相談の結果、明朝、一橋慶喜を訪ねて意見を言上することになりました。

久兵衛の日記によれば、この夜、諏訪常吉が久兵衛を訪ねて、容保東下の件を「内密」に知らせたところ、久兵衛は「一々不同意」で「曲折ニ論説」し、さらに林新九郎(肥後藩士)も招いてともに説得しましたが、常吉は聞き入れず、九ツに帰っていったそうです。その後、佐久間角助(肥後藩士)とともに大夫(=家老?)と相談し、慶喜に反対意見を言上することになったようです。

<ヒロ>
久兵衛は、前年11月に容保が東下を考えたときにも反対していました。

参考:上田久兵衛の「日記」『幕末京都の政局と朝廷』p245
関連:■テーマ別慶応1「将軍進発・有力諸侯召集問題」

>老中本庄宗秀・阿部正外の上京/幕府による慶喜の江戸召喚計画
■松平春嶽@越前の意見
【越前】元治2年1月29日(2.24)、前越前藩主松平春嶽は、前関白近衛忠煕に書を送り、幕府による禁裏守衛総督一橋慶喜の江戸召喚に反対し、将軍上坂までの慶喜滞京の勅を出すよう説きました。

(春嶽書簡のてきとう要約)
・今般(朝廷が)大樹(=将軍)上坂を更に仰せ出されたこと(1/18)は「御尤至極」である。朝廷の御見込では2、3月に上坂その後上京ということなのか、内々に伺いたい。
・幕府が一橋中納言に参府するよう言ってきたときくが、「虚説」でなければ「甚以□情之至」であり、大樹上坂までは滞京の勅を出してほしい。そうすれば朝廷も御安心、中納言も有難く存じ、諸藩も安堵に帰すと考える。只今中納言が京師を離れて東下しては「弥(いよいよ)西東之御情不通」に至るのではと「杞憂」している。もし「尊慮」に叶えば内府公(=忠房)に内談の上、殿下(=二条関白)等へ篤と熟談してほしい。

参考:『続再夢紀事』三p22-23(2019/1/27)

■薩摩藩@江戸藩邸の情報
【江】元治2年1月29日(2.24)、薩摩藩江戸留守居添役?柴山良助は、報告書に、江戸の情勢(前年の老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京の内々の目的(慶喜召喚)不首尾、今回の老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京とその目的(慶喜召喚要請と将軍上洛中止の説明)、幕府の復古的政策への諸藩の不満等)を記しました。

(てきとう要約・意訳。茶色は割付)
(前年末に)松前候(=老中松前崇広)・立花候(=若年寄立花種恭)、「長州御用」として関東を発たれた事は、「内実ハ一橋公を御呼戻之御用筋、第一御趣意之由」であったが、旧冬中旬頃御上京になられたところ、松前候は「前方之御腹とは全く御模様御替」になられ、「何辺京都之御趣意(=将軍上洛)」を御引受けになられた。よって、一橋公御呼戻しの儀は決して御発言にならぬようにとのことで、立花候と「御争論」もあったとの由。しかるところ、終にその儀を関白様(=二条斉敬)に内々にお伺になったところ、殿下(=二条関白)の御答えは、公式の要請であれば然るべき朝議もあろうが内々のことでは何とも答え難い(「表立之願ニ而、其筋を経候得は、何分可然 朝議茂被為在候得共、御内々之儀は何とも御答難」)との旨であったため、「其御運」(=慶喜召喚)にはならなかった由。
(立花種恭の京都出立時の慶喜とのやりとり) (こちら)
(松前崇広とが中川宮・二条関白に閲し、将軍上洛実現のため東下を決意したこと)

ただし、宮様、関白様始め、会津候・桑名公辺では、以前阿部候御上京の節に比べて、松前候の「御受込被成候御勢宜敷」、頼もしく思召された程の御事の由。しかし、一橋公は、松前候・立花候御両人様とも「全く御遁れ帰り」になったという御見込だとの由。

(松前崇広が帰府直前に川崎駅で登城をさしとめられ、以後登城がないこと)
松平伯耆守(=老中本庄宗秀)様去る19日、阿部豊後守(=老中阿部正外)様去る20日に(江戸を)御出立になった。此節御上京を命じられ、両御番御小姓組番頭室賀伊予守殿、御書院番頭太田筑前守殿を召しつけられ、その他、御目付新庄右近殿、羽太庄左衛門殿両人か、諸掛御役々が両閣老の御出立を先にいたし、跡抑々の出立で、「歩兵茂多勢被召付候」。

ただし、松前候が前文通りの時宜なので、一橋公呼戻しの件を公式に願い出る(「一橋公御呼戻之儀、表通御願立」)こととし、「将軍様御上洛之一条」を松前候が引き受けて東下したため、その申し開きを兼ての御用筋と申すことである。然るに、又、一説に、朝廷から諏訪因州(=老中諏訪忠誠)・水野泉州(=同水野忠精)を名指しで御召しになったが、両人が「御自身ハ御身構」になって伯耆守様・豊後守様へ割り当てたという説が専らである。・・・その説の虚実はさておき、(諏訪・水野の)「今日御勢」ではありそうなことである。御人物という点では、阿部候は閣老中では「人々望を掛居」ると伺われるが、前の上京以来「甚御不都合」で、一旦は御自身より御引込にになられる思い立てられるほどだったが、外からの御忠告によって取りやめ、以後御在職だが「区々因循ニ御勤」になられるのみだという。伯耆守様も「少々御調子合等可笑様之御気風」で同役から「御軽蔑」される御様子等もあるというが、「全体御正道」であり、当分、阿部候の御相談相手は伯耆守様(=本庄)より外にないようで、御両人様ながら「一体御不印(ふじるし)之御様子」である。それゆえ、諏訪候・水野候などより(上京の)御役をさせられたのではと推考する。ついては、右の通りの御人物方で此節の御一挙御上京の上は、「朝廷之御趣意振ニ御合体」になられ、「松前候之御例」を踏むことはあっても、「当幕役之趣意を固く取て格別朝廷之御不可」を謀るような気遣いはまず薄いようである。もっとも、右の通り「御不印之御方」を召したてられた件については、「幕役より格別深密之奸謀を被為相沱候訳」もあるまいとの「人々の「評説」もある。一つにはまた、(京都での)「事之成不被成」は第二で、成功すれば幸い、失敗すればそれを理由に(本庄・阿部の)官職を落とそうとの意図があるのではないかとも推考される。
(土岐朝昌の登城差し控えのこと)
大監察永井主水正(=永井尚志)殿、「長州主張之役」から着かれてすぐに登城差し止められたとのと。御同役神保佐渡守(=神保長興)も最近御上京になり、去る16日に帰府されたところ、同断だとのこと。
(前の所司代酒井忠義の登用・出府予定のこと)
(略)
(徳川余八麿のこと)
(尾張藩邸から知りえた徳川慶勝の出府に係る動向)
(宇都宮藩から天狗党参加者がいたことによる藩主戸田忠恕への処分のこと)
(閣内では、「当分諏訪候・水野候等権御座候は素より」だが、酒井飛騨守(=若年寄酒井忠ます)が「大に議論相立候向」で、「旗本之不和を抱」く者から「内御老」といわれている)
旗本にも「少々正義を勤」め、「幕府之意に逆」うような人物はことごとく黜(しりぞ)けられ、彼らはもちろんん、そのほか「困究旗本」などは、生活がひっ迫し、「色々暴激之論を立」て、様々「力味立候様之人多く出来申候由」。

ただし、「人之評」に、旗本の習いで、一家一家で「孤立之勢を成し」、力を合わせることに乏しく、どのような「暴激之論」を唱えても、「さまでの事」を生み出す気遣いはないとも承っている。
幕府之御趣意、寛政度之御政事ニ被成復度」との御趣意である。

此節にいたって、当幕府に阿る方は別段いるが、「親藩・外藩之差別なく、人気之失望不平を懐き候事、申計も無御座候次第」、今になってはとても当年中無事に立ちいくかどうか覚束ないくらいで、すでにまた、「諸藩連合仕り幕役を正すの挙動に至り可申形勢と推察」される。
*実際は、老中に対しては「被為」レベルの敬語が使われています。

<ヒロ>
『明治維新人物辞典』によれば、柴山は、この頃、江戸留守居添役だったようですが、幕閣の内情の情報源はどこらあたりなんでしょう??京都での会話なんて当事者(か近い筋)でないとわからないですよね。アンテナめぐらしてますね。

ちなみに、松前崇広が1月12日に松平容保・定敬記した書状によれば、本庄宗秀・阿部正外の上京の目的は賄賂による将軍上洛阻止と幕府歩兵による御所九門警備の交代とされていて、幕閣内では諏訪忠誠と牧野忠恭を除くべしと強調しています。本人は帰府後ただちに老中水野忠精に(将軍上洛を)論じたものの登城差し控えを命じられたといっているので、一度も登城していないという柴山情報もと異なります(こちら)。

なお、柴山は、勝海舟が江戸に召喚されて閑居中、頻繁に彼を訪ねています(前年9月に勝海舟と会って感激した西郷吉之助(こちら)の指示なんでしょうか??)。1月21日にも勝を訪ねて、松前崇広・立花種恭の上京始末を語っています(その内容はこの日の報告書と大筋は同じ)。なので、報告書の最後から二番目の項目で、「人之評」とあるのは勝海舟あたりかなと想像したりもします。

参考:『玉里島津家史料』三p52-58、『勝海舟全集1 幕末日記』p173(2019/1/27)
関連:■テーマ別元治1「老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京」 ■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京

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