☆京都のお天気:晴陰余寒厳 (嵯峨実愛日記) >将軍上洛&諸侯召集問題 ■朝廷の動き 【京】元治2年1月29日(2.24)、二条関白は中川宮に、明30日、尾張藩の有志諸侯召集の内願か会津藩の容保東下の内願かの評議をするので参加するよう求めました。 中川宮は二条斉敬関白に対し、尾張藩の有志諸侯召集は「非」であり、会津藩の容保東下は「是」であるとの意見を伝えました。 この日、二条関白は中川宮に使いをやり、「尾老より諸藩召内願切迫又会より東下切迫に申入、仍て明日ハ御評議」をするので是非参内するよう伝えました。中川宮は、返書において、尾張の論を「非」、会津の論を「是」であるとし、参内は所労でできないと記したそうです。 その後、中川宮邸に会津藩公用人倉沢右兵衛がやって来たため、中川宮は倉沢を通して、会津藩の願い通り容保に暇を与えてほしいと、二条関白に改めて申し入れました。 (中川宮の日記のてきとう訳)
<ヒロ> 中川宮と会津藩、相変わらず、がっちり手を組んでいますね。(二条関白は優柔不断、一橋慶喜は尾張と会津の間で二転三転(ニ心?)してますが)。容保東下の件では、これまで、公用方の広沢富次郎が中川宮への連絡係を務めていました(1/24)や(1/27)。ちなみに、倉沢右兵衛は、元治1年5月頃から中川宮に貸し出されている公用人です。同年7月18日夜、禁門の変直前に親長州派が突然参内した際には、中川宮の使いで会津藩邸に急を知らせています(こちら)。 (おさらい) 第一次征長戦(幕長戦争)は長州の服罪によって元治1年12月末に終わり、征長総督の前尾張藩主徳川慶勝(注:会津藩主松平容保の実兄)が入京していました。慶勝は幕府への報告において処分をは委ねるとしていたものの、(肥後藩主弟長岡良之助や薩摩藩士西郷吉之助の入説もあり)征討諸藩の意見も聞くべきだと考えていました。自らの上京に先立って、藩士若井鍬吉を上京させて朝廷による有志諸侯召集を周旋させた結果、鍬吉は一橋慶喜、近衛忠房、薩摩藩(小松帯刀)の賛同を得ましたが、二条関白・中川宮・会津藩の同意を得ることはできませんでした(こちら)。 一方、朝廷は、前年から征長へ将軍の進発を督促していましたが、江戸の幕閣は京都での迫害を恐れて実行しませんでした。それどころか、1月15日、幕府は、長州処分は江戸にて行うので今回は将軍は上洛する必要がない、と上洛延期を布告しました(こちら)。ところが、1月18日、朝廷は将軍に長州処分のために速やかに上坂するよう命じました(こちら)。 慶勝は、1月24日に上京し、朝廷に対し有志諸侯召集を内願しましたが、これに猛反発したのが会津藩でした。会津藩は、朝命に反した将軍上洛延期(実質中止)も政令ニ途を招く有志諸侯召集も幕府にとっての一大事だと考え、容保自身の東下・将軍上洛周旋を内願して、諸侯召集の動きに対抗しました(こちら)。慶喜も、(恐らく会津藩・桑名藩の働きかけで)意見を変え、25日には会津藩・桑名藩とともに有志諸侯召集反対(「列藩召不宣」)の建言を行いました(こちら)。ところが、慶喜は、28日に慶勝から有力諸侯召集を入説されると、またまた意見を変え、同意に転じていました(こちら)。 参考:『朝彦親王日記』一p124-125(2019/1/26) ■会津藩の動き 【京】元治2年1月29日(2.24)、禁裏守衛総督一橋慶喜が二条関白を訪れていたところ、会津藩公用方野村左兵衛が出会し、将軍上洛周旋のための藩主松平容保の東下と諸侯召集の20日間の猶予を懇請しました。 翌1月30日に尾張藩士若井鍬吉が越前藩士毛受鹿之助に語ったところによれば、左兵衛と慶喜のやりとりはこのような感じでした。 (↓越前藩士中根雪江の日記のてきとう訳)
諸侯召猶予を検討することにした慶喜は、その線で、尾張藩に相談したところ、尾張藩も了解しました。 慶喜は、また、二条関白に対しても、容保の東下の決意が固いので、その願い通り、暫時暇を与えるべきだと申し出ました。 <ヒロ> 会津藩が必死です。一度は諸侯召集反対に転じた慶喜が、前28日、慶勝の説得で召集に賛同したことが伝わったのでしょうか。明30日に朝議が行われることも聞きつけたのかもしれません。この日、中川宮が二条関白に対し、二度にわたって、尾張の論は「非」・会津の論は「是」とする意見を伝えています。時系列は不明ですが、もしかすると、それも慶喜の判断に影響したかもしれないですね。 それにしても、尾張藩若井鍬吉情報@越前藩の記録だけみていると、慶喜はずっと諸侯召集派で、この日会津藩に迫られていたしかたなく容保東下に同意したという風で、尾張藩と会津藩の間でふらふらしたようにはまったく見えないという不思議! (おさらい) 征長総督慶勝は、1月24日の上京に際して、朝廷に対し(長州処分討議のための)有志諸侯召集を内願しましたが、会津藩は政令二途を招きかねない諸侯召集には反対で、将軍上洛周旋のための容保の東下を内願して対抗しました(こちら)。1月26日、慶勝は容保東下中止の説得のため、会津藩公用人野村左兵衛を召し出すとともに尾張藩士田宮如雲を会津藩邸に派遣しましたが、不調に終わっていました(こちら)。 参考:『続再夢紀事』四p27、『越前藩幕末維新公用日記』p175、『朝彦親王日記』一p127(2019/1/26) 【京】元治2年1月29日(2.24)、会津藩公用人野村左兵衛が議奏・正親町三条実愛(嵯峨実愛)を訪ね、「時勢之事」と「両敬取扱」について相談しました。 公刊されている嵯峨実愛日記には、単に、「野村左兵衛来面談時勢之事且両敬取扱之義談申之来月一日使可贈答約了」とだけあるのですが、大日本維新史料(綱要DB)の嵯峨実愛日記の方は、「時勢之事」について詳しく書かれています。
<ヒロ> ちなみに、翌30日、正親町三条実愛は、二条関白に野村左兵衛の「言談」を「巨細申入」れたそうです。 それにしても、嵯峨実愛の日記って、公刊版と大日本維新史料版に書いてあることが異なることが、ちょくちょくありますねー。比較したかたちで整理してきてないので分析できないけど、公刊時に都合の悪いこと?が割愛されたり編集されたりしたんでしょうか。(たぶん、どこかで誰かが研究してるんでしょうが、素人にはみつけられず・・・) この日の出来事としては、公刊本にある「両敬」にも興味あります。「両敬」って、前年の2月に容保が二条家と結んだ「両敬の約」(「両敬相敬し、親交姻戚に亜くなり」という関係)のことですよね(こちら)?『京都守護職始末』や『七年史』や『会津松平家譜』には二条家との両敬は書いてあるのに正親町三条家については書かれてないんですよ。実愛は、後に、討幕派に転じちゃったので、旧会津藩士としては記録として後世に残したくなかったんでしょうか?? 参考:『嵯峨実愛日記』一,、嵯峨実愛日記1月29日条(綱要DB1月30日条 No6)(2019/1/26) ■肥後藩の容保東下反対運動 【京】元治2年1月29日(2.24)夜、肥後藩留守居上田久兵衛は、会津藩公用局の諏訪常吉に容保東下を反対しましたが、聞き入れられませんでした。その後、藩内相談の結果、明朝、一橋慶喜を訪ねて意見を言上することになりました。 久兵衛の日記によれば、この夜、諏訪常吉が久兵衛を訪ねて、容保東下の件を「内密」に知らせたところ、久兵衛は「一々不同意」で「曲折ニ論説」し、さらに林新九郎(肥後藩士)も招いてともに説得しましたが、常吉は聞き入れず、九ツに帰っていったそうです。その後、佐久間角助(肥後藩士)とともに大夫(=家老?)と相談し、慶喜に反対意見を言上することになったようです。 <ヒロ> 久兵衛は、前年11月に容保が東下を考えたときにも反対していました。 参考:上田久兵衛の「日記」『幕末京都の政局と朝廷』p245 関連:■テーマ別慶応1「将軍進発・有力諸侯召集問題」 >老中本庄宗秀・阿部正外の上京/幕府による慶喜の江戸召喚計画 ■松平春嶽@越前の意見 【越前】元治2年1月29日(2.24)、前越前藩主松平春嶽は、前関白近衛忠煕に書を送り、幕府による禁裏守衛総督一橋慶喜の江戸召喚に反対し、将軍上坂までの慶喜滞京の勅を出すよう説きました。 (春嶽書簡のてきとう要約)
参考:『続再夢紀事』三p22-23(2019/1/27) ■薩摩藩@江戸藩邸の情報 【江】元治2年1月29日(2.24)、薩摩藩江戸留守居添役?柴山良助は、報告書に、江戸の情勢(前年の老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京の内々の目的(慶喜召喚)不首尾、今回の老中本庄宗秀・阿部正外の率兵上京とその目的(慶喜召喚要請と将軍上洛中止の説明)、幕府の復古的政策への諸藩の不満等)を記しました。 (てきとう要約・意訳。茶色は割付)
<ヒロ> 『明治維新人物辞典』によれば、柴山は、この頃、江戸留守居添役だったようですが、幕閣の内情の情報源はどこらあたりなんでしょう??京都での会話なんて当事者(か近い筋)でないとわからないですよね。アンテナめぐらしてますね。 ちなみに、松前崇広が1月12日に松平容保・定敬記した書状によれば、本庄宗秀・阿部正外の上京の目的は賄賂による将軍上洛阻止と幕府歩兵による御所九門警備の交代とされていて、幕閣内では諏訪忠誠と牧野忠恭を除くべしと強調しています。本人は帰府後ただちに老中水野忠精に(将軍上洛を)論じたものの登城差し控えを命じられたといっているので、一度も登城していないという柴山情報もと異なります(こちら)。 なお、柴山は、勝海舟が江戸に召喚されて閑居中、頻繁に彼を訪ねています(前年9月に勝海舟と会って感激した西郷吉之助(こちら)の指示なんでしょうか??)。1月21日にも勝を訪ねて、松前崇広・立花種恭の上京始末を語っています(その内容はこの日の報告書と大筋は同じ)。なので、報告書の最後から二番目の項目で、「人之評」とあるのは勝海舟あたりかなと想像したりもします。 参考:『玉里島津家史料』三p52-58、『勝海舟全集1 幕末日記』p173(2019/1/27) 関連:■テーマ別元治1「老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京」 ■テーマ別慶応1「本庄・阿部老中の率兵上京」 |
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