3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:雨(久光の日記より) ■参豫の幕政参加問題 【京】文久4年2月13日(1864.3.19)、松平春嶽は、「参豫の諸侯を閣老の上に置いて国事を議」論させ、かつ「大いに人材を撰挙」すべきとの意見書を幕府に提出しました。 この意見書は2月11日の藩議に基づき作成されたもので、当初、将軍家茂に直接提出する予定でした(こちら)。しかし、慶喜に内談したところ、総裁職を経由したほうがよいと助言されたため、まず松平直克に提出したそうです。その後、意見書は総裁職から将軍に差し出されたそうです。 参考:『続再夢紀事』ニp419(20104/8) 関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1「参豫の幕政参加問題」 ■宸翰の請書問題 【京】文久4年2月13日(1864.3.19)、明14日の将軍参内に関する内触れがありました。 参考:『伊達宗城在京日記』p334-337 (2010/4/11) ■朝廷参豫会議 【京】文久4年2月13日(1864.3.19)夜、参豫諸侯の松平春嶽・伊達宗城・島津久光が参内を命じられ、幕府の征長方針等について下問されました。 会議は小御所中段で行われ、朝廷側は、国事関係の公卿が列座していたそうです。上段の御簾内に天皇がいる御前会議でした。 下問とその回答の概容は以下の通り(通し番号は仮。(1)は(『続再夢紀事』より。(2)-(5)は『伊達宗城在京日記』より)
同日、伝奏坊城俊克より、慶喜に、以後の参豫の参内は「御用之節ニ前日にても被仰出次第可申入候」との沙汰がありました。(『続再夢紀事』) <ヒロ> 朝廷参豫会議は、1月5日以来数日間隔で行われてきましたが、将軍入京直後の同月17日を最後にしばらく開かれていませんでした(同23日に参豫は参内しましたが、朝議は行われませんでした)(注2)。この日は伝奏から[差急ぎ御用」があるので「唯今早々」に参るようにと、突然参集を命じられたもので、しかも初めての御前会議でした。参豫3名への「御召状」によれば、慶喜にも同様の召集がかけられていたのですが、慶喜は欠席したようです。 議題のほとんどは長州処分(特に征長)に関するものでした(ここでは省略しましたが、容堂の暇乞いについても下問がありました)。 長州・七卿処分については、2月8日に、幕閣・参豫諸侯・朝廷の主だった者との協議を経て、(長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、三条実美らの京都還送、違背すれば征討を決定、の3点が決まっています(こちら)。さらに11日には、征長部署の決定・関連諸藩への内達(下問(3)の「内意書」)がありました(こちら)。翌14日に提出される1月27日の宸翰(こちら)の請書(こちら)には長州処分の方針について特に記されていませんが、長州処分については、朝廷側も交えた会議で結論を出しており、「内意書」も出していることから、既に、この点に関する勅ついては「請けた」という認識が双方にあったからだと思います。しかし、「内意書」は、朝廷重臣も交えての結論を踏まえての通達でしたが、将軍が天皇に請書を提出し、天皇がそれを受取る、という正式な手続きの前に出されています。中川宮や参豫3名が(5)で問題にしたのはその点になります。 この日、突然の参内が命じられたのも、長州処分の方針そのものには異論はないものの、征長の「内意書」は朝廷の関与なく作成・発表されており、明日の将軍参内を前に、不明な点を確認しておきたかったのではないかと思います。
表:これまでの朝廷参豫会議の概容
参考:『続再夢紀事』ニp419、『玉里島津家史料』ニp751、『伊達宗城在京日記』p334-337 (2010/4/8、4/11) 関連:■開国開城「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」■テーマ別元治1 「参豫会議」(朝廷参豫会議)「長州・七卿処分問題(元治1)」 ■容保の守護職更迭問題 【京】文久4年2月13日(1864.3.19)、幕府は容保に対し、日々登城・御用部屋入りしての政務参加を命じました(水野忠精より命が伝えられました)
また、11日に容保に命じた陸軍総裁職の名称を軍事総裁職に改めました。(日付は『七年史』、『京都守護職始末』。ただし、久光の日記には、2月15日の項に「肥後守(=容保)京都守護職被免、軍事総裁職被仰付由」とある)。なお、容保が軍事総裁職を請けたのは2月16日のことで(こちら)、軍事総裁職の職権(幕府の委任条件)は2月17日に通達されます(こちら)。 <ヒロ> ●容保/会津藩の幕政参加 ちなみに、容保が幕政参加を求められたのはこれが初めてではありません。容保が、まだ江戸にいた頃の文久2年5月に、折々の登城と幕政参加を求められています(「以来御用向申談候間折々登城可致相談旨被仰出候」)。←御用部屋入りではありません。 しかし、その後春嶽が幕政参与に命じられるやいなや、老中・大目付などがひきもきらず会見を求めたのに対し、容保は登城してもさしたる用がない様子でした。みかねた春嶽が老中たちに<わたしに相談があるときは肥後守(容保)も同席させてはいかがか>と提案したほどでした(こちら)。 容保は文久2年閏8月に京都守護職に就任しましたが(こちら)、 元来、守護職は、当時京都で伸張していた激派勢力を抑えるための会津藩の兵力が見込まれて新設されたポストであり、幕政(国政)への参与は期待されていませんでした。容保は、直ぐに上京しませんでしたが、その理由の一つに当時の幕議は鎖国・開国のどちらを国是とするか定まっていないことがあり、9月には「三港(長崎・箱館・横浜)外閉鎖」、上京の上、天皇・諸藩の意見聴取の上での国是決定等を建議しますが(こちら)、老中板倉勝静に開国・鎖国の幕議は守護職の担当外だと言われています(こちら)。また、朝廷に対しては、守護職の職掌は、十分な朝廷尊奉と京都警衛を行うことだと説明されています(こちら) さて、今回の御用部屋入りの背景として、『京都守護職始末』では、「実際の総督(=事実上の征長軍総督)の任」を尽すには、容保が御用部屋入りが不可欠であった旨が述べられています。確かに、これまでのように登城すらほとんどない状況では、征長に関する意思疎通がとれませんよね。 ちなみに、『七年史』では、この頃、二条城において「議論粉々」として、決定できないことが多いため、幕府は容保に「疾を力めて」幕議に参加させようとしたのだと記されていますが、管理人は、幕府が容保の政治的識見・調整能力に期待していたとは思えないため、これはないんじゃないかと思います^^;。 なお、(忘れてますが:笑)容保も参豫の一人です。参豫の御用部屋入りはこの時期の京都政局の主要三事の一つ(残りは横浜鎖港問題、長州問題)であり、容保に代わって守護職に就任した松平春嶽(1月24日に御用部屋入り)が熱心に運動していました。朝廷からの催促もあって、残りの参豫は2月16日に御用部屋入りが認められることになります。容保の御用部屋入りの方が数日早いのには、もしかすると、親藩大名を外様と同様に扱うわけにいかない、という幕閣の思惑もあったりして・・・?? 参考:『七年史』ニp116、『京都守護職始末(旧)』巻之下p16-17、『昔夢会筆記』p178(20104/8、4/9) 関連:■「京都守護職事件簿」:「文久の幕政改革と京都守護職拝命■テーマ別元治1「会津藩の守護職更迭問題」「参豫の幕政参加問題」 |
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