2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年12月24日(1864.2.1) 
【京】中根雪江、平岡円四郎に諸侯会議の運営方法を提案
【長州】奇兵隊、幕府汽船長崎丸(薩摩藩借用中)を砲撃・沈没

■参豫会議へ
【京】文久3年12月24日、中根雪江(靱負)が一橋邸の会所に赴き、平岡円四郎に面会して<今後は会同諸侯は集会ごとに各々意見を吐露し、衆議一定の上、橋公がその可否を決せられる事になるのが肝要である>と述べました

平岡は中根の意見に同意し、<中納言殿に申し上げ、明日の御集会からそのような体裁になるよう尽力しよう>と回答しました。

参考:『続再夢紀事』二p306
関連■開国開城「後見職・総裁職の上洛と攘夷期限約束」政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年「参豫会議へ」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 ■徳川慶喜日誌文久3

■薩摩vs長州:幕府汽船長崎丸(薩摩藩借用中)砲撃事件
【長】同日夜、下関を航行中の幕府汽船長崎丸(薩摩藩借り上げ中)が、長州奇兵隊士に砲撃され、沈没しました。

この船は、幕府の長崎製鉄所が所有する船でしたが、当時、薩摩藩が幕府から借りて使用中でした。事件により、乗組員の内、士官9人、機関士以下19名が行方不明になりました。

長州藩が翌元治1年1月2日に「其筋」に提出した書面には、長崎丸を外国船と誤って攻撃したとの旨が書かれています。しかし、同日薩摩藩が提出した書面では、事前の「條約」通り、夜間には帆柱毎に灯篭を掛けて「国印」とし、さらに念のため、灯篭を差し出していた程であるのに「如何様異船とも見違候哉」と疑問を呈しています。

この後、で薩摩藩の恨みをかうことを恐れた長州藩庁は、藩主の使者桂議介を薩摩へ派遣して『外国船と誤って砲撃した』件を謝罪するなどして、事態の収拾をはかります・・・。

<ヒロ>
一坂太郎氏(『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』)によれば、事件の原因は文久3年8月の禁門の政変で、元々同じ西南の雄藩で薩摩をライバル視していたところ、禁門の政変で追い落とされた恨みが大きく、薩摩藩が標的になったのだといいます。(つまり、外国船と見誤ったのではないという主張)。

実は、当時、南北戦争で世界的に綿花が供給不足になっていたため、日本における綿の買い付けが盛んになっていました。薩摩藩は、この船に綿を積んでいて、兵庫から長崎に向かっている最中だったそうです。表では攘夷と言いつつ、外国と貿易をしていたことになります。

参考:『続再夢紀事』二p323、『修訂防長回天史』p566-567(四上155-160)、(『長州奇兵隊 勝者の中の敗者たち』)、『西郷隆盛全集』一p313(2005.2.3、2010.4.16)
関連:◆文久4年1/2(2.9)【京】参豫集会:/長崎丸砲撃事件糾問の薩摩使者派遣一時見合わせを決定。小松、在京薩摩藩の激昂を語る/ ◆2/8(3.15)【京】二条城会議(容保欠席)/長州処分:参豫諸侯、総裁職・老中と長州処分を議す/近衛前関白らとも議し、長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問(うち1条が長崎丸砲撃事件)等を決定 ◆

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