3月の「幕末京都」 幕末日誌元治1 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
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☆京都のお天気:雨暖気(久光の日記より) ■1月27日の宸翰の請書 【京】文久4年2月14日(1864年3月21日)、将軍徳川家茂は三度目の参内をし、去る1月27日の宸翰(こちら)に対する請書を提出しました。 宸翰が出されてから16日後のことでした。 請書の大意は以下のとおり。(番号は仮)
<ヒロ> ●参豫側の意見を容れた請書草案の修正 実は、請書の草案段階では、(3)の青字部分(「膺懲(ようちょう)を妄挙仕る間敷」)が「無謀の攘夷ハ仕間敷」となっていましたが、 2月9日に、草案のコメントを一橋慶喜から求められた松平春嶽が「無謀の攘夷・・・」は、これは1月21日の内諭(こちら)にあった文言であり、27日の勅諚にはないので「不都合」である旨を、伊達宗城に相談の上、中根雪江を遣わして慶喜に申し入れていました。慶喜の求めに応じて、中根の提出した修正案は、「無謀の攘夷ハ仕間敷」を「妄挙仕間敷」に変えたものでした(こちら)。これは、27日の宸翰の文中の「妄に膺懲(ようちょう)の典を挙んとせは却て国家不測の禍に陥らん事を恐る」という文言からとったものでした。以上から、幕府は指摘された箇所を参豫側の意見を容れて草稿を修正し、朝廷に提出していることがわかります。 ●請書提出までの流れ 請書が提出されたのは、宸翰が出されてから16日後のことでした。かなりかかっていますよネ。主要問題について、幕府と参豫(春嶽・久光・宗城・容堂)の意見調整に時間がかかったからだと思います。 特に横浜鎖港問題は紛糾しましたが、結局、鎖港不可を強く主張する久光が折れることになり、2月4日には不本意ながら、横浜鎖港は交渉使節帰国までの鎖港を是として当面は幕府に任せることとし、相談された春嶽も同意しています(こちら)。久光・春嶽との関係から考えて宗城にも同様の相談があって同意を得たと考えてよいと思いますので、これで、請書に記す横浜鎖港の方針がようやく定まったといえると思います。 長州・七卿処分については、それほど紛糾することもなく、2月8日に、参豫・朝廷の主だった者との協議を経て、(1)長州支藩及び家老の大坂召喚及び訊問、(2)三条実美らの京都還送、(3)違背すれば征討を決定、の3点が決まりました(こちら)。この時点で、宸翰を受取ってから10日が経過していました。 2月9日には請書の草案が春嶽に示され、コメントを求められています。しかし請書はすぐには提出されず、将軍参内の内触があったのは13日のことです。その間、幕府では征長部署を決定し、11日には、関連諸藩に征長の内意を通達しています(こちら)。これは、朝廷重臣も交えての結論を踏まえての通達でしたが、将軍が天皇に請書を提出し、天皇がそれを受取る、という正式な手続きの前に出されています。13日夜の朝廷参豫会議では、中川宮から、請書が提出されてから、征長の内意が発表されていれば、「人心折合都合も宜」かっただろうと指摘され、出席の参豫3名は、自分たちも請書が先の方がよいと度々主張したが、「色々之都合にて手間取」ったのだと答えています(こちら)。 なお、請書に長州処分の方針が特に記されていないのは、既に方針は朝廷重臣も交えた会議で定まっており、征長の内意も関連諸藩に伝えていることから、請書に記す必要もない(既に「御請けした」)という認識があったからではないかと想像しています。(朝廷からも、長州処分について書かれていないことは問題にされませんでしたので、双方そういう認識だったと思います。もしかすると、根回しがあったのかも???) ●横浜鎖港に係る朝廷の疑念 さて、請書を受取った朝廷では、横浜鎖港に関する幕府の姿勢(上記(4))に疑念をもちます。赤字で示した文言(「何分にも成功仕度奉存候得とも、夷情も測り難」。口語訳すると、鎖港を成功したいと考えているが、外国の事情も予測困難である)では、鎖港を確実にするのかどうか曖昧に思えたからです。特に太字部分の「得とも」が問題とされました。 後日、中川宮が春嶽・宗城・久光の3名に打ち明けたところによると、先日、薩摩藩が陽明家(近衛家)に横浜鎖港に関する幕府の上奏文案を「内見」に入れたことがあったが、(その上奏文案と違って)請書の文中には鎖港をするともしないとも「分明」ではないので、忠房は、「さては参豫諸藩に協議せず幕府限り」に認めた、「例の因循主義」による書面であろうと「疑念」を感じたそうです(『続再夢紀事』)。また、三公(左大臣、右大臣、内大臣)は、請書すら20日もかかるような幕府の「因循」なので、請書に横浜鎖港を確かにするという文言がなければ、幕府が鎖港をすることは甚だ覚束ないと話し合ったそうです(『伊達宗城在京日記』)。 請書に示された横浜鎖港方針に疑念をもった朝廷は、翌15日に参豫諸侯を呼び出して、この件に関する参豫の意向を確かめるとともに、文言の修正を求めることになります・・・。 実際のところは、請書の草案は「参豫諸藩」との「協議」の場(=二条城会議)では検討されませんでしたが、上述のように、2月9日に慶喜は請書の草案について、春嶽にコメントを求め、春嶽は宗城とも相談しています。さらに幕府は春嶽の使者である越前藩士のコメントをもとに請書を修正していますから、請書の作成は「幕府限り」だったとはいえないのですが・・・。 ●幕府の裏事情 幕府側は幕府側で、1月27日の宸翰に「開港の意味」が含まれると違和感をもった慶喜が、この頃までには、二度の宸翰が薩摩藩によって起草され、密かに朝廷に提出されたものであることを探り当てています。しかも、夜中に差し出したものを翌朝には下すよう願い出ていたため、天皇らは「染め染め御覧不被遊」であった(つまりよく検討する時間がなかった)こともつきとめたというのです(こちら)。(2月18日付原市之進書簡)。 慶喜の回顧談によると、もともと、幕府は、将軍再上洛の前に、御前会議で、決して「薩州の開港説」には従うまいと決めていました(前の上洛時には長州に迫られて破約攘夷を方針とし、今度は薩摩に従って開港になったのでは、幕府には「一貫の主義」がなく、いたずらに外様藩に翻弄される姿になる、というのが理由)。また、「国を開くという薩州の議論は誠に当然なんだ。しかるにその当然なのを、こっちは横に是非鎖港をやるのは甚だどうも。(鎖港を)真実やる積りなら、それはまた悪くともとにかくだが、前かたは長州のお陰で、こんな攘夷だの鎖港だのができた、今度はまたそれを止めるとなっては、ただ人に愚弄されるのだ。こういうところから、後はとにかく、まず聴いてはいかんといようなわけだ、どうもしかたがない」とも語っています。慶喜自身も、当初、久光の開港論に賛成だったものの、将軍とともに上京した老中が薩摩の説に従うなら辞職すると言い出し、将軍に確認すると将軍も老中と同意見だというので、幕府の鎖港論に変えたのだと語っています。(『昔夢会筆記』)(こちら) 翌15日、朝廷に召集された慶喜は、請書で横浜鎖港について曖昧ともとれる表現になったのは、宸翰の趣意が「無謀之攘夷御好不被遊」だったので、止むを得ず、「ニ三等引下」げ、「平穏ニ」御請けしたからだと説明します・・・。(2月9日に春嶽が指摘したように、「無謀之攘夷」は1月21日の内諭にある表現なんですが・^^;) つまり、慶喜は、薩摩藩が宸翰の裏工作をしており、「開港の意味」が含まれているのはその影響であるとつきとめておきながら、わざわざ請書を「開港の意味」が含まれるとも受取れる、曖昧な表現にした可能性があります。もちろん、幕府の鎖港方針に変わりはありません(薩摩の裏工作があったと知れば、なおさら方針転換はありえませんよね)。では、なぜ、そんなことをしたのでしょうか・・。ちなみに、宗城・久光は、2月16日の中川宮邸での集会において、最前から「一橋始閣老中」は横浜鎖港だけは「別紙」で出したい様子だったので、その思いから(曖昧な請書を)出したのだろう、との推測を語っています。 参考:『続再夢紀事』ニp420-422、p431 『伊達宗城在京日記』p342、『徳川慶喜公伝』史料編ニp38-45、『昔夢会筆記』p27、228-232(2010/4/11) 関連:■テーマ別元治1「将軍への二度の宸翰」 「横浜鎖港問題(元治1)」 ■ 参豫会議解体:参豫VS慶喜/幕府■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■参豫諸侯の幕政参加 【京】文久4年2月14日(1864年3月21日)、参内した将軍家茂は中川宮に「参豫の諸侯を閣中に入れて国事を議せしめられては如何」と促され、その通りにすると約束しました。 <ヒロ> かなり具体的なことに踏み込んだ発言ですよね。中川宮と懇意な久光(あるいは薩摩藩士)の入説でもあったのかと疑ってしまいます!(参豫の幕政参加に一際熱心だったのは春嶽ですが・・・) 参考:『続再夢紀事』ニp422(2010/4/11) 関連:■テーマ別元治1 「参豫の幕政参加問題」■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」「参豫の幕政参加・横浜鎖港・長州処分問題と参豫会議の崩壊」 ■その他の出来事 【京】伊達宗城、山内容堂訪問(『伊達宗城在京日記』p337)(2010/4/11) |
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