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■親兵設置問題 【京】文久3年2月22日、後見職一橋慶喜は、朝廷に対し、親兵は畿内諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤務させ、守護職会津藩に差配させたいと上書しました。 『徳川慶喜公伝』によれば、これは親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした。 参考:『徳川慶喜公伝』2p195-197、『伊達宗城在京日記』p139 ■足利将軍木像梟首事件 【京】文久3年2月22日夜、何者かが京都等持院の足利三代将軍(足利尊氏・義詮・義満)の木像の首を取り、23日未明、三条大橋に梟首するという事件が起りました。 木像の脇に立てられた板札では足利将軍を「逆賊」と呼び、その罪状は、朝廷を悩まし、不臣となったことで、木像の首をはねて梟首したのは大義名分を明らかにするためだとしています。さらに、<大将軍織田公(信長)により(足利の)賊統が断絶したのはよかったが、最近、この奸賊に超過するものがあり、その党数多く、その罪悪足利氏の右に出ない。もしそれらの輩がただちに旧悪を悔い、忠節を示さなければ、有志が大挙して罪科を糺すものである>(要約byヒロ)と続けられていました。これは、足利幕府に借りて現幕府を非難し、尊氏の首級を、近々に上洛する現将軍に擬したものだったのでした。 <ヒロ> 幕府の募集した浪士組入京直前の事件です。関東浪士への在京浪士からの挑発という面もあったかもしれません。 ◆密偵・会津藩士大庭恭平の関わり さて、この事件には、実は会津藩士の大庭恭平が関与していました。大庭は公用方の一員で、会津藩は彼を浪士の間に潜伏させて事情を探らせていました。この大庭が交わっていた浪士たちが足利木像梟首の犯人であり、大庭も計画〜実行まで参画していました。大庭は、事件後、ひそかに公用方に立ち返り、事情を報告しました。 ◆容保の方針一転 報告をきいた守護職の松平容保は、激怒し、それまでの寛容だった浪士対策を一転させました。足利木像梟首事件は、京都守護職の浪士「弾圧」の契機となった事件です(こちら)。 もちろん、容保はこの時点でも、「不逞」浪士と「有志」浪士は区別していました。浪士側にとっては「不逞」も「有志」もなく、弾圧と受け止められたのはいうまでもありません。以後、京都守護職と浪士は激しく対立していくことになったのでした。 <参考>『京都守護職始末』・『七年史』一(2000.4.9、2001.4.9) 関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」 ■テーマ別文久3年:「浪士対策」 「足利将軍木像梟首事件」 ■浪士組 【京】文久3年2月22日、大津の浪士組に去る18日に在京諸大名21名に対して鷹司関白が攘夷の勅諚を示したこと(こちら)、言路洞開の達しが伝わったそうです。 <ヒロ> ◆浪士組/新選組よくある誤解? 上京中の浪士組本部と京都の幕閣の間では、当然ですが、情報の交換がなされており、その一環だったようです。言路洞開の達しは、おそらく20日に朝廷が学習院における草莽の建言を許可したこと(こちら)を指しているのではと思います。 清河八郎は上京したら尊王攘夷の建白書を朝廷に提出することを前々から計画していたようなイメージがありますけれど、『清河八郎』(小山松勝一郎著)によれば、この日の夜、建白書の草稿を作って清書したとされています(出典不明。『清河八郎遺著』にはこのことは載っていません。遺著に含まれない書簡などが存在するのでしょうか?)。確かに、入京直前に攘夷の勅諚が下され、草莽による朝廷への建言への直接ルートが開かれたことは、清河にとってはまさに追い風です。 関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) 参考:『清河八郎』(小山松勝一郎著) その他の動き 【京】一橋邸に春嶽・容保・宗城参集。(『伊達』p138-140) |
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