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■生麦事件償金問題 【京】文久3年2月27日、朝廷は、上京中の水戸藩主徳川慶篤に和宮守護のため帰府するようにとの沙汰を出しました。 『続再夢紀事』によれば、この日、参内した慶喜と春嶽は、前日関白鷹司輔熙らに説明した通り(こちら)、英国との交渉経緯及び「上下挙りて覚悟を定め」るべきことなどを再述しました。議奏・伝奏・国事御用掛・(参政・)寄人にも詳細を説明しましたが、「事情貫徹に至らず」という状況でした。(大目付岡部長常が宇和島藩に語ったところによると「外患の義事情申述べ候えども馬耳東(風)」だったそうです:『伊達宗城在京日記』)。 天皇に謁見して直に言上するという意見も容れられませんでした。同月29日に中川宮が春嶽に語ったところによると、孝明天皇も御前会議開催に同意しており、その上「兼て一橋越前の存意は貫徹せしめたしと仰せらるる程の事なれど」、国事掛らが反対したために実現しなかったのだそうです。 このため、両人は夜三更(子の刻・0時ごろ)になって空しく退出しましたが、緊急を要するので、春嶽らは、さらに所司代屋敷に集って徹夜で善後策を話し合いました。この結果、幕府から在京諸侯に帰国の暇を与えることを議定し、また、大目付岡部長常・目付沢勘七郎に帰府・英国との交渉を命じました。春嶽が屋敷に戻ったのは翌28日の朝5ツ(8時頃)になっていたそうです。 ただし、朝廷は、この日、和宮守護のための水戸藩主帰府の沙汰を慶喜に伝達しました(「文久発亥筆記」『徳川慶喜公伝史料篇』一)。幕府は即日、慶篤に帰府を命じました。しかし、在京水戸藩執政大場一真斎が一旦は勅命の通り上京したいと強く迫ったので、日付不明ながら、その後、この命令は中止になりました(『伊達宗城在京日記』)。 関連:■テーマ別文久3年:「生麦事件償金問題」「水戸藩」■開国開城:「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 参考:『続再夢紀事』一p391-392・『徳川慶喜公伝史料篇』一・『伊達宗城在京日記』p146(2004.4.14) ■親兵設置問題 【京】文久3年2月27日、参内した後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽は、国事掛と親兵設置について議論しましたが、結着がつかないため、諸侯に諮問し、「天下之公論」を以て定たいと具申し、その了承を得ました。 ところが、朝廷は、夜半になって、諸侯に対し、帰国時には朝廷警衛のために人数を出すよう発令しました。実質的な親兵設置の沙汰でした。
○沙汰発令の裏事情 中川宮が、5月29日に春嶽に語った裏事情によれば、中川宮も鷹司関白もこの沙汰には反対でしたが、国事掛らが「強て迫」ったため、発令されたといいます。 中川宮によれば、この夜、沙汰発令の議論になったとき、関白は、<一橋・越前とも諸侯の公論を聞いた上で、何分の御請に及ぶと言っており、未だ御請に及んだわけではない。諸大名に発令するは時期尚早である>と主張しましたが、国事掛は<「公論を聞き云々」と申立たてたということは、即ち御請けに及んだも々ことです>と反論しました。関白が、その暴言に呆れ、)「暴言を以て事を議する上ハ其方達の勝手にすべし」と言い放つと、彼らは、その言葉を関白からの委任だと称し、沙汰書を発表したのだそうです。 関白が沙汰書の発表を知ったのは事後であり、中川宮も事後に因幡藩からの報知で知ったそうです。 ○おさらい:親兵設置 もともと親兵設置問題は、文久2年10月の薩長土の尊攘急進派の建議が発端で(こちら)、幕府へは、同年11月27日、勅使三条実美から、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよという沙汰が伝えられていました(こちら)。幕府は朝廷の兵権回復を恐れ、寄せ集めとなる親兵は実効がないと、12月5日、親兵設置は拒絶しました(こちら)。勅使は親兵設置要求を貫徹せぬまま江戸を出立しましたが(こちら)、その後、親兵設置の議論はますます高まり、2月22日(21日?)、後見職一橋慶喜は、機先を制する形で、親兵は、守護職の指揮下、畿内・近国の諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤めさせたいと建議しました。親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした(こちら)。朝議を支配している急進派の国事参政・寄人は、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、草莽のうち有為な者も召しださせること、親兵は御所の守衛に就き、その他の地はこれまでどおり諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、との意見でした(こちら)。 関連:■開国開城「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題 」■テーマ別文久3年:「親兵設置問題」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『伊達宗城在京日記』p151・『続再夢紀事』一p393、『徳川慶喜公伝』2(2003.4.22、2004.4.14) ■浪士対策 【京】文久3年2月27日、京都守護職松平容保は足利三代将軍木像梟首事件の顛末を朝廷(伝奏)に報告すると同時に、町奉行所を通して浪士に対し、不心得者は罰するが、「誠忠正義」で「真実尊攘」を志すものは幕府も認めるので、心得違いをせぬよう諭す触書を出しました。(日付は『会津松平家譜』・『京都守護職始末』より) 顛末の報告:
触書:
*『会津松平家譜』によれば、諸藩にも触書が出されました。洛内外に出された触書との違いは、最後の一文が<もし不心得者が過激の所業に及び帝都を騒がせる者があれば、きっと取り静めるよう取り計らわれるように>となっています。 さらに、容保は、在京の有志の徒で主家のないもの(浪士)を攘夷先鋒として隊長を定め、守護職の指揮下に置くよう伝奏に建言しました。⇒「私的幕末資料集」浪士を攘夷先鋒にとの容保の建言書:口語訳 <ヒロ> ◆「不逞」浪士への強硬路線&「有志」浪士との融和路線 前日、足利三代将軍木像梟首事件の犯人を捕縛し、急進派(「不逞」浪士)との対立路線を選んだ容保ですが、その一方で、「有志」浪士に対しては穏健な懐柔策を継続することを表明しています。会津藩は浪士全体との対立となる事態は望んでいなかったことが覗えます。 ◆浪士を攘夷先鋒にとの上書 浪士を攘夷先鋒の一隊とする件については、1月29日に国事御用掛が在京諸藩周旋訳を招いて諮問しており、在京諸藩の多くに指示しています(こちら)。容保も、2月5日にも、前日入京したばかりの政事総裁職松平春嶽邸を訪問し、浪士を水戸藩武田耕雲斎(当時は一橋家に貸し出されて慶喜に随従)に付属させて攘夷に先鋒させる(自分が指揮する)という処遇案を提案していました(こちら)。その提案の延長上にある建言でしょう。このときは、春嶽に反対されましたが、ほぼ同じ内容のものを朝廷に提出したということは、春嶽・慶喜の了解を得たということなのでしょうか。この日の建白に武田耕雲斎の名がみられないのは、耕雲斎との間(武田個人より、むしろ一橋慶喜や水戸家との間かもしれない)話がついていないからなのか、そのへんは手持ちの史料からはうかがえません。 この日にこの建言が出された背景には、まず、上記のように、生麦事件償金問題が緊迫化し、いよいよ開戦の可能性が高まってきたことがあると思います。さらには、2月22日に入京した250人を超える浪士組(こちら)と、翌23日に清河八郎の提議でその浪士組が連盟で学習院に提出した尊王攘夷の建白書の存在があるのではないかと想像しています。浪士組の建白書には、万一将軍が尊王攘夷をためらえば正そうと周旋し、幕府がその周旋を受け入れねば「身命をなげうって勤王いたす志意」であり、幕府の募集に応じて上京はしたが禄は受けておらず、「皇命を妨げ、私意を企て候輩」は、たとえ幕府の役人であっても譴責する決心である・・・など、彼らが攘夷の先鋒となり、必要とあれば幕府の支配を離れて幕府と対決することも辞さない決意が示されています(こちら)。そうでなくても親兵設置問題で朝幕間が紛糾している中、250余名の浪士が朝廷直属の兵となれば一大事ですし、その動きに呼応しようとする浪士たちが出てこないとも限りません。このような事態を招く前に、「有志」浪士を自らの指揮下に組み込もうという意図もあったように思うのです。 ◆壬生浪士組結成へ 管理人は、この建言は、浪士組のうち東帰に応じなかった者(残留浪士)が京都守護職預かりになるきっかけとなったものだと考えていますが、容保が「有志」浪士を指揮下にと考えたのは、彼らに京都の治安維持をさせるためではなく、あくまで攘夷先鋒とするためだということに注目したいです(わたしは、新選組の前身となった壬生浪士組はもともとは攘夷先鋒となるために結成されたのだと思っています)。 ところで、新選組の古典的研究書である平尾道雄著『新撰組史録』(昭和17年)に、2月17日のこととして、尊王攘夷を念願する有志に対しては、保護を加えてその志を実行させる機会を与えよという容保の志を「幕府当局も・・・諒(了解)し」、「壬生駐屯の浪士組支配をその手に委ねようとした」という記述があります。ただし、出典が記されておらず、『会津藩庁記録』・『七年史』等の会津側の記録を探しましたが、裏づけとなるものがみあたりません。仮に史実だとすれば、同日の容保の朝廷への建言を受けて幕府が動いたことになるのでしょうか・・・。といっても、容保の建言は浪士組を明示しているわけではありませんし、建言を出した即日に幕府が浪士組を容保に委ねるというような決断を下したというのも不思議な気がします。しかも、「幕府当局」といいますが、この時期、浪士組を管轄していた老中はまだ上洛していません。容保の建言に即座に対応ができるとすれば、この時期、京都にいた後見職一橋慶喜・総裁職松平春嶽になります。これもまたしっくりきませんが、慶喜・春嶽が「幕府当局」だったとしても、この日は生麦事件償金問題や親兵設置問題でほぼ一日朝廷・所司代に詰めており、それどころじゃなかった気もしますし・・・。越前藩の記録にも浪士組のことはみあたらないんですよね。なにかわたしの知らない資料が存在するんでしょうか・・・。う〜ん・・・。引き続き探究して、何かみつかれば結果をここに反映したいと思います。 関連 : ■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」「足利木像梟首事件」■「志士詩歌」足利木像梟首事件 参考:『会津藩庁記録』一・『七年史』一・『会津松平家譜』・『新撰組史録』(2001.4.14、2003.4.22、4.25) ■薩長融和の勅諚改竄 【京】文久3年2月27日、前年勅使として東下した大原重徳(おおはら・しげとみ)が大赦の勅諚を改竄した罪で辞官・落飾・蟄居に処せられました。(『七年史』) <ヒロ> 勅諚改竄とは、文久2年8月、長州藩世子毛利定広が幕府に伝えるようにと受け取った大赦の勅諚に薩摩藩を刺激する部分があり、勅使として東下中の大原重徳が薩長融和のため、独断で改竄したことを指します。半年前のことです。しかも、大原が改竄の勅諚を長州藩に授けたことは事実ですが、大原は同時に京都(岩倉・中山・野宮)に勅諚改正を求めており、時をおかずして朝廷からは改正された勅諚が在京の長州藩主毛利敬親に下っていました。(敬親はこのとき、朝廷に対して、すでに江戸で改正された勅諚を受け取り周旋をしている旨を説明し、その勅諚を返還しています)。大原が帰京したときに処分は行われませんでした。 大原がこの時点で罪に問われた背景には、朝廷から公武合体派勢力が後退していたことがあると思います。すでに、公武合体派よりの関白は辞職しており、勅使東下に関与した岩倉具視は重い慎に処せられ、中山忠能も議奏を辞職していました。(このとき「公武合体派」として処分された、岩倉・中山・大原がいずれも新政府の要職についているのが面白いですよネ)。 *勅使東下・勅諚改竄関連:■開国開城「文久2年5月〜:勅使大原重徳東下と文久2年の幕政改革」■テーマ別文久2年「勅諚改竄問題」 *天誅・公武合体派の勢力後退関連:■開国開城開国開城:「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」「天誅と幕府/守護職の浪士対策」 ■テーマ別:天誅(文久2年) 天誅(文久3年) 参考:『七年史』一(2003.4.22) |
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