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文久3年2月29日(1863.4.16)
【京】生麦賠償:水戸藩、東帰の議論・上京を促す桂小五郎の使者到着/
【京】浪士組東帰:攘夷切迫につき、意見を述べるようにとの達し
【京】浪士組に攘夷の勅諚

■生麦事件賠償問題
【京】文久3年2月29日、江戸守衛のための帰府の命を受けた水戸藩では、東帰をめぐって議論が噴出しました。また、長州藩桂小五郎からは上京を促す使者が到着しました。

水戸藩主徳川慶篤は将軍家茂が江戸を出立した3日後の2月16日に江戸を発っていました。この日、尾州宮ノ沢で、慶篤は、生麦事件処置の交渉で緊迫する江戸守衛のために帰府するようにとの27日付の沙汰(こちら)を受け取りました。続いて、慶篤に先行して上洛中の老中からも沙汰を受けた帰府の命令が届きました。

この東帰命令について、慶篤一行は議論紛々となったそうです。江戸守衛自体の命令に異存はないものの、京都の近くまで西上したのに一度も禁闕を拝せずに東帰するのは「尊王の義厚き我が藩情」にとって大変「遺憾」であったし、また、長州藩士桂小五郎は美濃部又五郎に使者を送り、帰府の朝命は天皇の真意ではなく、反対派の妨害なのでこのまま上京するようにと促してきました(使者の発言の大意は「水戸候当駅より御引返之朝命は真之叡慮より出候事には之なく異議者の壅蔽之致す所なれば推ても一先づ御入朝被成候様致度旨申上候様主人小五郎より被申付候」だったとされます)。

『水戸藩末史料』によれば、このとき、行列外で随従していた薩摩藩邸駆け込み事件の激派ら29人が桂の使いに伴われて上京したそうですが、『修訂防長回天史』では、水戸藩激派29人を京都に伴ったのは伊藤俊輔(伊藤博文)だとされているので、桂の使者というのが伊藤だったのかもしれません。

追記:桂の使者はやはり伊藤でした(『水戸藩史料』下引用の川瀬教文日記)。

<ヒロ>
伊藤とともに上京した水戸激派29人は吉成恒次郎・林忠左衛門・鳥居幾之介・芹澤又衛門・服部悌三郎・根本新平・芹澤助次郎・芹澤亀三郎・金子芳四郎・黒沢忠之進・菅谷八次郎小川吉次郎・宮本主馬之介鯉渕右京大越忠之進・小林幸八・粟田源太衛門・海老沢孫次郎・和知総次郎・下野清助・鯉淵直衛門・大森丑之介岩谷敬一郎中野仲・加固次郎・八同庄助・八同経介・八同理介・榊幾次郎でした。うち、薩摩藩邸駆け込み事件関係者は黒太字、玉造勢(として管理人が確認できる人物)は赤太字です。

ところで浪士組として上京した粕谷新五郎も薩摩藩邸駆け込み事件の一員なのですが、他の同志と行動をともにせず、一人、浪士組に参加したのはなぜなのでしょうか??同じく浪士組に参加した水戸激派の芹沢鴨=玉造勢の下村継次だとすれば、芹沢に誘われでもしたのでしょうか?

なお、吉成恒次郎は芹沢とは知人である山口徳之進の従兄弟です。さらに、芹沢派の新見錦は一説に、水戸浪人吉成常郎のところで乱暴を働き、別の水戸浪人梅津の介錯で切腹したとされますが(「浪士報国記事」)、この吉成常郎=吉成恒次郎なのかもしれません。

関連:■水戸藩かけあし事件簿 ■テーマ別文久3年:「水戸藩」「生麦事件賠償問題」■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上洛
参考:『水戸藩末史料』・『天保明治水戸見聞実記』・『水戸藩史料』下(2004.4.16)
■朝廷の内情
【京】文久3年2月29日、中川宮は、松平春嶽に対し、朝議が「暴言」を弄する国事掛(尊攘急進派)の意のままになる様子を伝え、天皇が望む御前会議も、彼らの妨害で開けないと嘆息しました。

両者のやりとりはこんな感じでした。

春嶽
一昨27日に仰せ出された親兵のことを宮は如何思召されるか。自分は到底実用に適さぬだろうと考えます。

中川宮
此方も「甚た不同意」で「関白(=鷹司輔煕)も同しく不同意」だが、「国事掛りの輩強て迫れる故止むを得す」仰せ出されたのである。

先夜、この件で評議になった際に、関白は、国事掛に対し、<一橋・越前らは「諸侯の公論を聞き然る上何分の御請に及ふへし」とこそ申したが、未だ御請けしたわけではなく、諸大名に発令するのは尚早だ>と申された。しかし、彼輩は、<公論を聞き云々申し立てるのは、即ち御請けに及ぶも同じ事である>と申した。関白はその「暴言に呆れ」たが、<「暴言を以て事を議する上ハ其方達の勝手にすへし」>と言い放たれた。彼らはそれを「関白殿の御委任」と称して、ついに諸大名に発令したのだ。

このような次第なので、御沙汰書すら、関白殿は発表後に承知し、此方も因州からの「吹聴」で発令を知った程。「歎息至極」である。

春嶽
「英国請求の件」(=生麦事件償金支払要求の件)は、たとえ「攘夷拒絶の議」があるにしても「外国人を暴殺」した事より戦を開いては、「所謂不義の暴戦にて堂々たる體義国の宜しく為すへき所」ではないでしょう。

中川宮
(深く了解した)
さて、27日参内の際、天前において議事を開くこと(=御前会議)を希望したところ、聖上もその思召しであらせられ、その上「兼て一橋越前の存意ハ貫徹せしめたし」と仰せられる程のことなのだが、「例の輩」が御前会議を欲せず、頻りに妨害するので、止むを得ず、開くことができなかった。

参考:『続再夢紀事』一p393-394(2012.4.27)

■浪士組東帰
【京】文久3年2月29日、浪士たちは、取締役より、攘夷の件が切迫してきたので思うところを述べたい者は新徳寺に集合せよとの通知を受けました。(「御攘夷の儀切迫に及び候間、存じより「廻状留」)

切迫する攘夷の件というのは、英国の要求する生麦事件処置の三条件を幕府が拒めば、24時間後に開戦となる可能性を指しています。返答期限は3月8日。間近に迫っていました。

浪士組でこの日に何が話されたかという記録は見たことがないのですが、3月1日付の『伊達宗城在京日記』に「関東浪士の存意書」の大意が記されています。この日の議論を取りまとめたものだと思いますので要点をご紹介します。
  1. 幕府が尊王攘夷を遵奉の結果、将軍上洛となっているこの時に、英国が戦端を開くことになっては「不宣」なので、早々に拒絶の沙汰を得た上で応対すること。
  2. 将軍は上洛後「一式」が済めば早々に帰府して江戸防衛の指揮を執ること。
  3. 京都の防衛は守護職に任せ、大名を2〜3名つけること。
  4. 後見職一橋慶喜は大阪城に入って鎮撫にあたること。大名を2〜3名つけること。(御所修復・公卿手当てなどの懸案は守護職に委任すること)
  5. 浪士組の銘々は東帰・攘夷の先鋒を勤めること
なお、『清河八郎』には、翌日、浪士組が朝廷に提出したとされる上書の一部が引用されており、そこにも<外国拒絶の期になれば関東で戦争が起こるかもしれないので、速やかに東下して攘夷に備えるよう命令してほしい・・・>との内容が含まれています。(こちらは新選組本で孫引きされていることもあるので、ご存じの方も多いかもしれませんね?。ただし、例によって出典不明です。探求中)

<ヒロ>
◆浪士組/新選組よくある誤解?
従来、この日の議論の内容として、『清河八郎』における部分引用を根拠に、攘夷のための東帰という点だけが強調されてきたようですが、『伊達宗城在京日記』をみれば、彼らの東帰は幕府のとるべき日本防衛策の一環として具申されていることがわかると思います。『在京日記』の「存意書」も大意しか記されていないので、正確なことはわからないのですが、浪士組の東帰・攘夷は、将軍の東帰・攘夷の指揮とセットになっているようですよね。

参考:『史談会速記録』・『殉難録稿(清河正明伝)』・『新撰組史録』・『新選組隊士遺聞』(2000.4.16、2004.4.16)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

【京】文久3年2月29日、朝廷の国事御用掛は浪士組の代表を呼び出し、攘夷の功を建てるようにとの勅諚を授けました。

<・・・蛮夷拒絶の叡旨を奉じ、固有の忠勇を奮起し、速やかに掃除(攘夷)の功を建て、上に宸襟を安んじ、下に万民を救い、外国が日本をうかがう気持ちを絶たせ、国体を汚さぬようにとの叡慮にあらせられる>
(出典:『新撰組史録』所収の勅諚。意訳ヒロ。資料として使わないでね)

さらに、鷹司関白からは、24日に浪士組が提出したj攘夷の建言書を天皇が喜んでおり、今後も国事に関して遠慮なく忠言をするようにとの書が下されました

<・・・先だって、有志の者が誠心をもって報国尽忠周旋したいとの一件が叡聞に達したが、天皇は喜ばれ、これより、いっそう言路を洞開し、草莽の微賤の言葉といえども叡聞に達し、忠告至当の論かどうかに関わらず、言路をふさぐことのないようにとの深重の思召しである。忠言を遠慮することなく、学習院に参上し、御用掛にまで言上するようにとの仰せであるので、心得て申し出るように>
(『新撰組史録』所収:意訳ヒロ。引用は原文にあたってください)

(2003.4.27)

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