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■生麦事件賠償 【京】文久3年2月28日、京都所司代は、在京諸侯に対し、生麦事件賠償問題を期に英国と戦端が開かれる可能性があるとして、藩地をしっかりおさめるよう帰国の暇を達しました。 この件について、前々26日、将軍後見職一橋慶喜・政事総裁職松平春嶽は関白鷹司輔熙・近衛前関白・中川宮に面会し、償金を払わぬ際は戦争になり、上下が焦土となる覚悟を定める必要があるとして、天皇への直接奏上と諸侯帰国の暇を出すことを求めていました(こちら)。前27日、尊攘急進派に阻まれ、意見は採用されませんでしたが、緊急を要するので、慶喜らは幕府から達しを出すことを決めていました(こちら)。 関連:■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題」■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上洛」 参考:『続再夢紀事』一・『伊達宗城在京日記』(2003.4.22、2004.4.15) ■攘夷親征&親兵設置 【京】文久3年2月28日、長州藩は重臣浦靱負・楢崎弥八郎を使者に立てて学習院に、石清水行幸・攘夷親征、及び藩士から親兵貢献を建議しました。 ○長州藩の石清水行幸(親征)建議
○親兵差出
春嶽・慶喜は、前日に、親兵設置は諸侯に諮問して「天下の公論」によって定めることを建議したばかりであり(こちら)、藩士を親兵として貢献したいという長州藩の請願に驚き、請願を採用しないよう、鷹司輔熙関白・中川宮などに入説しました。 ○おさらい:親兵設置 もともと親兵設置問題は、文久2年10月の薩長土の尊攘急進派の建議が発端で(こちら)、幕府へは、同年11月27日、勅使三条実美から、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよという沙汰が伝えられていました(こちら)。幕府は朝廷の兵権回復を恐れ、寄せ集めとなる親兵は実効がないと、12月5日、親兵設置は拒絶しました(こちら)。もちろん、京都守護職に命ぜられ、一藩をもって親兵として京都守護にあたる決意の会津藩も、親兵設置には猛反対でした。勅使は親兵設置要求を貫徹せぬまま江戸を出立しましたが(こちら)その後、親兵設置の議論はますます高まりました。 将軍上洛を前にした文久3年2月22日(21日?)、先発上京していた後見職一橋慶喜は、機先を制する形で、親兵は、守護職の指揮下、畿内・近国の諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤めさせたいと建議しました。親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした(こちら)。一方、朝議を支配している急進派の国事参政・寄人は、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、草莽のうち有為な者も召しださせること、親兵は御所の守衛に就き、その他の地はこれまでどおり諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、を主張しました(こちら)。2月27日、参内した慶喜・春嶽は、国事掛と議論をしましたが結着せず、親兵設置の可否は諸侯に諮問して「天下の公論」によって定めることを具申し、いったんは了承を得ました。ところが、その夜、朝廷は、急進派の主導で、諸侯に対し、帰国時には朝廷警衛のために人数を出すよう発令しました。実質的な親兵設置の沙汰でした(こちら)。 参考:『徳川慶喜公伝』2・『修訂防長回天史』(2003.4.22) 【京】文久3年2月28日、浪士組六番小頭の西恭助が取締役に転じ、その後任に近藤勇が据えられました。また、浪士組に28〜30日にかけて御所拝観が許され、拝観時間の割り当てが発表されました。 参考:「廻状留」(『新選組隊士遺聞』抄出分) 関連:■開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」「加茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「攘夷親征」「親兵設置問題」 |
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