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文久3年3月5日(1863年4月22日)
【京】政令帰一:後見職一橋慶喜、将軍代理として大政委任の親勅(口頭)獲得
【京】総裁職松平春嶽、将軍辞表の意見書提出
【京】水戸藩主徳川慶篤入京

■政令帰一
【京】文久3年3月5日午後、将軍名代として参内した後見職の一橋慶喜は、天皇に、従来通り委任してくれれば、天下に号令して外敵を掃除しますと奏上し、天皇からは、庶政は従来通り委任するので攘夷に尽力せよとの親勅を得ました。しかし、その後、鷹司関白から下された書面は「大政」ではなく「征夷将軍の儀」を委任するという内容でした。

この日、慶喜は将軍名代として参内し、天皇のほかには関白・前関白・中川宮のみが列座する席に召出されました。慶喜は、大政委任の必要性を次のように奏上しました。

旧冬、攘夷を仰せ出されましたが、叡慮の通り、「人心一致」がなくては出来がたく存じます。然るところ、井伊掃部頭(=井伊直弼)らの「不正之取計」があって以来、諸人の疑惑を生じ、号令は定まらぬ姿であります。「是迄モ都テ将軍へ御委任」されていましたが、「猶又御委任」くだされば、(将軍が)「天下へ号令ヲ下し、外夷ヲ掃除仕」りたく、この段、お伺いいたします。

三月五日           慶喜
(参考:「任長朝臣記」『維新史』三より口語訳by管理人)

なお、『続再夢紀事』には、慶喜が、攘夷実行には天下の人心一致・一和が必要なので、大政委任を願いたいと言上したそうだと書かれています(口語訳by管理人)↓
大樹には、昨年来、専ら積年の「非政を去り、更に時勢に適すへき新政を布く」との決心で既にそのことに着手しました。殊に、攘夷の勅も下された今日、いよいよこれらの事業を成し遂げるには、「上下の人心専ら一致一和を要するは申上るまでもな」く、願くは、この際、「更ニ従前の如く庶政を挙けて関東へ御委任」になり、天下の向う所を一つに帰せしめられますよう。

天皇は「庶政ハ素より従前の如く関東に委任する存慮なり。しかし攘夷の挙は尚出精すべし」と答えました。

この日、慶喜は宮中で徹夜し、翌6日朝に退朝したので、二条城でもどうなったのかと懸念して、春嶽以下、諸有司等は城に詰めたままでした。

慶喜に下付された勅書は以下の通り
「征夷将軍之儀惣而此迄通御委任被遊候攘夷之儀精々可盡忠節事」

勅語とは微妙に異なっています。この間の事情は『徳川慶喜公伝』によると・・・

天皇の親勅を慶喜が書面にするよう鷹司関白に求めると、大政ではなく「攘夷御委任」という書取が渡されました。慶喜は徹夜で強硬に抗議し、勅語どおりの書取を要求しました。結果、関白は「征夷将軍の儀は、すべてこれまでの通り御委任遊ばさる。攘夷の儀精々忠節を尽すべき」という書取を渡しました。最初の「征夷将軍の儀」という部分は勅語にはなかったものの、慶喜はあえて異議を唱える必要もないと思い、これを受け取って二条城に戻ったそうです。

しかし、このことが後々に響くことになりました・・・。

<ヒロ>
将軍上洛前にも、慶喜は春嶽らとともに、鷹司関白らに政令帰一(政権返上か大政委任か)を求めて失敗しました。このときは、大政委任を得た上で、大開国の国是を決定する心積もりだったと思います。


○おさらい
将軍に先立って上京していた後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽春嶽は、尊攘急進派の勢力を覆すことができず、それどころか実行不可能な攘夷の期限を4月中旬と約束していました(こちら)。2月になって両者は上京を打開するには大政委任(政令帰一)か政権返上しかないという点で一致し(こちら)、関白鷹司輔熙に二者択一を迫って、21日には、関白から将軍上洛時には庶政委任の沙汰があるだろうとの言質を得ていました(こちら)。しかし、その後朝命を得ることには成功していませんでした。春嶽は30日には自身の総裁職辞任をの意見は将軍辞職・政権返上に傾き、3月3日には上洛途上の将軍家茂大津まで出迎えに行って辞職を勧告しました(こちら)

一方、慶喜は天皇から、攘夷と引き換えに大政委任の再確認を得ることで状況を打開しようと考えていました。そこで、4日、将軍とともに老中(老中水野忠精・板倉勝静・老中格小笠原長行)が入京すると、政事総裁職松平春嶽・山内容堂・伊達宗城を呼んで会議を開き、京都の事情と政令帰一の緊急性を説きました。一同の賛同を得ると、同夜、老中3名は関白鷹司輔熙に面会し、将軍は若年なので後見職の慶喜に名代として予め奏上させて叡慮をうかがいたい・・・と提案し、承諾を得ていました。

参考:『続再夢紀事』一p403-404・『徳川慶喜公伝』2p173(2001/4/22,2004/4/22) 
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題

■政権返上論
【京】文久3年3月5日政事総裁職松平春嶽は、前日着京した将軍家茂に謁し、改めて辞意を告げるとともに、将軍にも「断然御辞職」を希望する旨、言上し、意見書を提出しました。

意見書の大意は<将軍上洛に先立って努力したが今日にいたっても何もできなかった。将軍がなにか別の案を持っているならともかく、そうでなければ将軍の職掌がまっとうできない旨を天皇に言ってすみやかに辞職するべきである>というものでした。

昨年来、深く(朝廷を)御尊崇され、万事、叡慮を立てて御遵奉されるので、自分も先発・上京して精々努力してきたが、今日に至っても「諸端混雑」し、「兎角人心居合兼」ね、恐れながら、叡慮も悩ませられている次第である。
(将軍に)もし、「此上外ニ思召通」がおありになり、上は宸襟を安んじ、下は万民を護る御見込(=案)がおありなら「格別」だが、そうでなくては、恐れながら「将軍之御職掌相立兼」ねることになるので、その旨を主上に申し上げ、「速ニ御辞職」されるほかあるまいと存じる。

<ヒロ>
春嶽のいう将軍辞職は政権返上とセットです(こちら)。 要するに、政権返上覚悟で「破約攘夷はできない」と断り、積極開国(大開国)を主張せよと言ってるのだと思います。

●文久2年の政権返上論
春嶽の政権返上論は、このときに思いついたものではありません。春嶽は、幕府が奉勅攘夷か開国上奏で揺れる前年10月、開国論を主唱する慶喜に対して、朝廷が開国論を受け入れない場合は幕府は政権返上(大政奉還)する覚悟を定め、その覚悟をもって人心を鼓舞してはどうかと提案したことがありました(こちら)。慶喜はこの考えに同意したものの、重大事なので老中らに言い聞かすことについては、熟慮の上、明朝改めて相談したいと述べるに留まりました。春嶽の政権返上覚悟論を更に推し進めた政権返上論を唱えたのは当時大目付だった大久保一翁(忠寛)でした。最初開国上奏と決めた幕府は一転して攘夷奉勅を決めるのですが、その日、一翁は春嶽の政治顧問横井小楠に対し、開国を上奏し、それでも朝廷が攘夷断行を命じたときには大政を奉還し、諸侯の列に下ること(大開国論)を主張し、小楠を感服させています(こちら)。当時の幕閣は一翁の意見を一笑に付したとされています。

小説などでは、政権返上論は坂本龍馬のオリジナル・アイデアであるような描写が結構ある気がするのですは、ここからもわかるように、それは「よくある誤解」です。

参考:『続再夢紀事』一p402-403・『徳川慶喜公伝』2(2001/4/22、2004/4/22)
関連■テーマ別文久2年:「国是決定:奉勅攘夷VS開国上奏」文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌

■水戸藩
【京】文久3年3月5日、水戸藩主徳川慶篤(慶喜の実兄)が入京しました。

水戸藩主徳川慶篤は将軍家茂が江戸を出立した3日後の2月16日に江戸を発っていました。この日、尾州宮ノ沢で、慶篤は、生麦事件処置の交渉で緊迫する江戸守衛のために帰府するようにとの27日付の沙汰(こちら)を受け取りました。続いて、慶篤に先行して上洛中の老中からも沙汰を受けた帰府の命令が届きました。同時に桂小五郎らから水戸藩東帰の命令は陰謀だとの知らせも届き、議論紛々となりましたが(こちら)、結局朝命通りの上京を請願することになりました。また、在京水戸藩執政大場一真斎も一旦は勅命の通り上京したいと強く迫ったので、その後、この命令は中止になり、上京した上で帰府すると決まっていました。なお、桂小五郎の使者だった伊藤博文(俊輔)に連れられた水戸藩「尊攘激派」29名はすでに入京していました(こちら)

参考:『水戸藩史料』下・『伊達宗城在京日記』(2004/4/22)
関連■テーマ別文久3年:「水戸藩」■:「水戸藩」「かけあし事件簿

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