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文久3年3月23日(5.10):
【京】生麦賠償:幕府、水戸藩主徳川慶篤に東帰・外国処置委任を達し、
家老大場一真斎に帰府し、江戸警衛に当るよう命じる/
松平容保、老中に、水戸藩に全権委任するようにとの意見書提出

■生麦事件償金支払問題
【京】文久3年3月23日、幕府は、朝命を受けて水戸藩主徳川慶篤に関東守衛のための東帰を命じ、外国の交渉を委任しました。

「此度御滞京被仰出候に付、為関東守衛御下向、且御所より被仰出候旨有之候事故、外夷御処置振、御委任被成候間、曲直を明し、名儀を正し、御国威相立候様、御取計可有之候旨、被仰出候事」
(『七年史』。旧字は、適宜、当用漢字に直しています。なぜか、『水戸藩史料』に載っていません。)

さらに、家老大場一真斎に慶篤に随従して帰府し、江戸防衛に尽力するよう命じました。

「  大場一真斎
精忠節義之志厚有之候段、兼て達御聴、一段之事ニ候。此度御所より被仰出候趣も有之、江戸表為御守衛、水戸殿帰府被致候ニ付てハ、陪従罷帰り御警衛向、其外万端厚相、右之通御申付可被成候事」
(『水戸藩史料』下。変体仮名は管理人が適宜直しています。句読点も管理人)

家老大場一真斎の東帰も、元は朝廷から言い出されたものでした。

「有栖川中川両親王、奏して水戸家老大場一真斎武田耕雲斎を朝廷に召し、鶴間仮建に於て、公及び国事掛参政、対面。朝命を伝えて曰く此回の事、実に国家の緊要なり。汝等、黄門(=中納言=水戸藩主徳川慶篤)を補翼(=補佐)し、精力を竭(つく)し、以て国威を興張、水戸家の瑕瑾たらしめざる様、篤と其意を得べし。且つ一真斎は水戸黄門に附属し、耕雲斎は一橋黄門(=一橋慶喜)に附属すべし」
(『水戸藩史料』下引用の『三条実美公実記』。読みやすいように、片仮名は平かなに変え、句読点を打ちました。注釈も管理人)

ちなみに有栖川宮は水戸徳川家とは縁戚関係にあります。(参考:「豆知識:幕末将軍・大名・宮家・公家の姻戚関係」)

また、幕府は、水戸藩に対し、東帰の際には弟昭訓を滞京させて京都を守衛させるようにとの朝命を伝達しました。


「水戸中納言殿(=慶篤)帰東之儀御所より被仰出、不日被発途候に付ては、御舎弟余四麻呂(=昭訓)並び分家松平主税頭(=松平頼位・支藩宍戸藩主松平頼徳の父)、滞京御警衛之有候様被遊度思召候旨、伝奏衆より申来候間、右之通御心得可被成候。此段被申上候」
(『水戸藩史料』下。変体仮名は管理人が適宜直しています)

<ヒロ>
将軍滞京が決まると、今度は誰を東下させるかということになります。幕府は従前から水戸藩主徳川慶篤を東下させるつもりで、3月8日にそのことを朝廷に奏請していました(こちら)。同月14日、朝廷は慶篤には滞京させ、後見職一橋慶喜か総裁職松平春嶽を東下させよと命じました(こちら)が、将軍が東下を取りやめた22日夜、朝廷は、水戸藩に東帰及び攘夷戦争指揮を命じました(こちら:日付は『水戸藩史料』。『七年史』の23日説もあります。22日夜=23日未明ということなのでしょうか)。この日の東帰の幕命は、22日の朝命を受けて出されたものでした。(東帰の幕命は『水戸藩史料』に載っていないので、『七年史』の23日としましたが、22日もありえると思います)。

幕府は、親藩への指示も自由には行えず、朝廷の指図通りしなくてはならないという状況になっていることがわかると思います。朝廷が幕府の頭を越えて直接命令しないだけ、ましといところなんでしょうか・・・。

【京】同日、京都守護職松平容保は、老中に対し、生麦事件処置の交渉の全権を水戸藩主に委任するよう、意見しました。

この日、容保が老中に提出した意見書の内容は以下に要約する通り。

・これまで英人応接の件(=生麦事件賠償交渉)については、種々話合ってきたが、篤と愚考するに、(江戸と京都は)百里以上も隔てた場所であり、今後共、事情は貫徹しがたく、(使者の)往来の間にも機会を失し、色々差支えのあることは顕然としている。

・江戸表の件は、既に尾張殿に留守居を命じており、今回、将軍様が滞京されるについては、叡慮をもって水戸殿(=水戸藩主徳川慶篤)を東下させ、さらに図書頭(=老中格小笠原長行)も東下させたが、英夷始め、諸夷応接の全権を水戸殿に委任し、曲直を明らかにし、不義の名目立てぬよう応接すべしとのみ、命じるべきである。遥かに離れた京都より色々指図することによって掣肘があっては、所謂「棄軍」となり、応接も成功しがたく、事変の際には接戦全勝の功は覚束ない。どうか「悉皆御委任」されるように。右の趣旨を朝廷にも提出したく存じる。

・但し、水戸殿に全権委任されても、事によっては尾張殿へ相談し、図書頭始め外国奉行諸役人に応接させ、外に然るべき者がいれば人選し、水戸家臣も加わって応接させてもよいと、命じるべきである
(『七年史』要約by管理人)

<ヒロ>
容保の意見書提出のタイミングがわからないので、この意見書を受けて上記の幕命が出たのか、幕府と容保が偶々同じことを考えていたのか、判断がつきませんm(..)m。


関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題&第1次将軍東帰問題」「水戸藩文久3年」■水戸藩かけあし事件簿
参考:『水戸藩史料』下、『七年史』一(2004.5.11)

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