■生麦事件償金支払問題 【京】文久3年3月23日、幕府は、朝命を受けて水戸藩主徳川慶篤に関東守衛のための東帰を命じ、外国の交渉を委任しました。
さらに、家老大場一真斎に慶篤に随従して帰府し、江戸防衛に尽力するよう命じました。
家老大場一真斎の東帰も、元は朝廷から言い出されたものでした。
ちなみに有栖川宮は水戸徳川家とは縁戚関係にあります。(参考:「豆知識:幕末将軍・大名・宮家・公家の姻戚関係」) また、幕府は、水戸藩に対し、東帰の際には弟昭訓を滞京させて京都を守衛させるようにとの朝命を伝達しました。
<ヒロ> 将軍滞京が決まると、今度は誰を東下させるかということになります。幕府は従前から水戸藩主徳川慶篤を東下させるつもりで、3月8日にそのことを朝廷に奏請していました(こちら)。同月14日、朝廷は慶篤には滞京させ、後見職一橋慶喜か総裁職松平春嶽を東下させよと命じました(こちら)が、将軍が東下を取りやめた22日夜、朝廷は、水戸藩に東帰及び攘夷戦争指揮を命じました(こちら:日付は『水戸藩史料』。『七年史』の23日説もあります。22日夜=23日未明ということなのでしょうか)。この日の東帰の幕命は、22日の朝命を受けて出されたものでした。(東帰の幕命は『水戸藩史料』に載っていないので、『七年史』の23日としましたが、22日もありえると思います)。 幕府は、親藩への指示も自由には行えず、朝廷の指図通りしなくてはならないという状況になっていることがわかると思います。朝廷が幕府の頭を越えて直接命令しないだけ、ましといところなんでしょうか・・・。 【京】同日、京都守護職松平容保は、老中に対し、生麦事件処置の交渉の全権を水戸藩主に委任するよう、意見しました。 この日、容保が老中に提出した意見書の内容は以下に要約する通り。
<ヒロ> 容保の意見書提出のタイミングがわからないので、この意見書を受けて上記の幕命が出たのか、幕府と容保が偶々同じことを考えていたのか、判断がつきませんm(..)m。 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題&第1次将軍東帰問題」「水戸藩文久3年」■水戸藩かけあし事件簿 参考:『水戸藩史料』下、『七年史』一(2004.5.11) |
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