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文久3年3月14日(1863年5月1日) 
【京】久光上京:薩摩藩国父島津久光入京、14か条の建議
【京】親兵:親兵設置、鎖港交渉のための松平春嶽帰府、水戸藩主徳川慶篤滞京の朝命

■久光上京
【京】文久3年3月14日、島津久光が入京し、近衛前関白邸で14か条の建議をしました。

薩摩藩主の父・島津久光の上京は文久2年についで2度目でしたが、今回は朝幕双方から招かれての上京でした。この日、久光は近衛忠煕前関白邸を訪問し、鷹司関白、中川宮、一橋慶喜、松平容堂と会談をもちました。

久光は、<先日来、(朝廷は)攘夷を急がせているというが、現在、攘夷は決して行うべきではない。また、堂上に国事掛を命ずることは、害だけで益がないので廃止するように。生麦事件では軍艦(英国艦)を薩海(鹿児島湾)に差し向けるべきである。交渉によっては償金を支払うべきである>(『続再夢紀事』 口語訳ヒロ)など14条の建議をしました(14か条は『徳川慶喜公伝』11章に紹介されています)。久光の建議に対して、中川宮が国事掛の廃止は困難だと言っただけで、そのほかは返答がなかったそうです。また、このとき、久光は、慶喜に、攘夷は困難だとわかっていながら何故容易く請けたのかと詰問したそうですが、慶喜はこれにも返答しなかったそうです。

いらだった久光は、一時、「此議御決定なくば、明日は帰国すべし」(『徳川慶喜公伝』)と席を立ったそうですが、関白らが説得した上で、急進派公卿の三条実美・姉小路公知にも入説するよう求めました。久光は夜になって、宿舎の知恩院に帰りました。

<ヒロ>
◆島津久光の2度目の上京をめぐる動き
文久2年11月、翌春の将軍上洛を控えた江戸では、幕府が京都の尊攘急進派勢力を抑えるために、当初、後見職一橋慶喜らに大兵を率いさせての武力制圧を考えていました。しかし、総裁職松平春嶽から公武合体派連合(将軍上洛前に、薩摩藩ら公武合体派大名・公家が連携して公武一和の国是を決定する)策の提案があり、この策で臨むことに決まっていました。その中核と目されていたのが幕府と薩摩藩でした。久光は自身の上京には賛成しましたが、将軍上京には時期尚早として反対でした。幕府だけではなく、朝廷も、明けて文久3年1月16日、近衛忠煕関白が天皇の内意をうけて久光の上京を求めました。久光待望論です。一方、将軍上洛延期運動の方は、大久保利通(一蔵)が京都と江戸で展開したものの、失敗に終わりました。その大久保が鹿児島に到着したのが2月8日。久光は、将軍上京延期は成らなかったものの自身の上京を決し、3月4日、藩兵約700名を率兵して海路鹿児島を出立していました。同日、将軍は入京しました。将軍上洛前に、久光を交えた公武合体派が国是を決めるという計画は成りませんでした。

さて、将軍上洛から10日後にようやく入京した久光ですが、すでに、朝廷からは公武合体派勢力は後退し、急進派勢力におされて幕府は攘夷期限を約束するなど、公武合体派連合策はすでに挫折していました。連合策の発案者である政事総裁職の松平春嶽も、辞表を提出中(こちら)で、久光が入京したというのに近衛邸での会合には参加しませんでした。

参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝(島津久光履歴書・大久保家文書・紹術編年等)』・『大久保利通』・『島津久光の明治維新』(2003.5.6)←鹿児島県史料をGETしたのでそのうち補足します。
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題

■親兵設置&将軍東帰問題
【京】文久3年3月14日、伝奏野宮・坊城は、一橋慶喜に対して、親兵設置、交易拒絶交渉のための春嶽江戸帰還、水戸藩主徳川慶篤の滞京の沙汰を出すよう申し入れました。

伝奏の通達は以下の通り。
「御親兵之儀」は毎度仰せ出される通り、是非とも設置したいとの思召しである。名目は「御守衛」でも差し支えないので、十万石以上の大名より高割を以て人数を差し出すよう、速やかに達すること。
「交易拒絶談判(=鎖港交渉・生麦事件償金拒否の交渉を含む)之儀」は重大事であるので、春岳は「所勞」(=疲れ、病)のようだが、「総裁之職掌故所勞相扶出立」して帰府せよとのこと。
水戸中納言(=徳川慶篤)は、先だって和宮御守護のため、(上京の)途中より(江戸へ)引き返すよう命じたが、幸い既に上京したので、暫く滞京し、和宮御警衛は他藩へ申し付けること。
右の通り仰せ出されたので申し入れる
(出所:『続再夢紀事』一より作成。箇条書きbyヒロ)

親兵の名義を御守衛でもよいとしたのは、会津藩の<「親兵を設置すれば、皇宮の警護は諸藩の任となり、京都守護職は京都市中の警護役に過ぎなくなり、これでは幕府が守護職を置いた意味がない。会津一藩を親兵にするものであり、諸藩から献ずる兵は、守衛兵としてほしい>という議論を受けたものだそうです。

◆将軍東帰問題(おさらい)
幕府は、将軍上洛前の2月11日、攘夷期限設定を迫る朝廷に対して、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束していましたが(こちら)、これはとうてい実行不可能でした。将軍は3月4日に着京しましたので、約束によれば、将軍は14日には東帰し、4月中旬までには攘夷を断行せねなくてはなりません。慶喜は、今後の公武一和の成就や薩摩藩国父島津久光の近々の入京・周旋に期待てし、将軍滞京期間を延期させようと考えました。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、3月8日、鷹司関白に、京都守護を名目とする将軍滞京と水戸藩主徳川慶篤の(将軍名代としての)東帰を願い出ました(こちら)。ところが、11日、朝廷は、将軍滞京延期を認めたものの、慶篤ではなく、慶喜か春嶽に東帰を命じました(こちら)。翌12日にはどちらが帰府するかの返答及び一方の両日中(当初の将軍滞京期限)の退京・帰府を催促しました(こちら)

この日、帰府の沙汰が出された春嶽は3月9日に辞職内願書を幕府に出して、引篭り中でしたが(こちら)、幕府はあくまでも春嶽に辞意撤回を求める方針で(こちら)、未だ春嶽の辞意を朝廷に知らせていませんでした(所労と言っていたようです)。

◆親兵問題をめぐる動き
御所(皇居・公家居住地)の警護は、従来、所司代の主導下、関西諸藩が行ってきました。しかし、文久2年になって、諸藩−特に長州藩−の中から親兵を徴するという議論が起り、10月5日、薩長土の有志が親兵設置を建議しました(こちら)。これを受けた朝廷では、11月の勅使東下の際、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよという沙汰が伝えました(こちら)。幕府は、諸藩に京都守護の主導権を奪われることや朝廷に兵権が回復するのを恐れて、親兵設置を(婉曲的に)拒絶しました(こちら)。もちろん、京都守護職に命ぜられ、一藩をもって親兵として京都守護にあたる決意の会津藩も、親兵設置には猛反対でした。勅使は親兵設置要求を貫徹せぬまま江戸を出立しましたが(こちら)、その後、親兵設置の議論は高まりました。

将軍上洛を前にした文久3年2月22日(21日?)、先発上京していた後見職一橋慶喜は、機先を制する形で、親兵は、守護職の指揮下、畿内・近国の諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤めさせたいと建議しました。親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした(こちら)。一方、朝議を支配している急進派の国事参政・寄人は、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、草莽のうち有為な者も召しださせること、親兵は御所の守衛に就き、その他の地はこれまでどおり諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、を主張しました(こちら)

2月27日、参内した慶喜・春嶽は、国事掛と議論をしましたが結着せず、親兵設置の可否は諸侯に諮問して「天下の公論」によって定めることを具申し、いったんは了承を得ました。ところが、その夜、朝廷は、急進派の主導で、諸侯に対し、帰国時には朝廷警衛のために人数を出すよう発令しました。実質的な親兵設置の沙汰でした(こちら)。次いで28日、長州藩が、親兵に藩士(一万石あたり一人:合計37名)を献じたいと請願し(こちら)、3月6日、朝廷はこれを許しました。

将軍は3月4日に上洛しましたが、幕府は、未だ親兵設置を請けていませんでした。14日、ついに朝廷は、「名目は御守衛でもよいので、10万石の大名から人数をさしだすよう、申達すべし」と親兵設置の命を下しました。

この後、幕府は、18日、十万石以上の大名に対し、「一万石に一人の割合で、健康・行状・武勇の秀でた者を選び、御守衛として京都に差出し、その取締は各主人で厚く世話し、一年をもって交替するように」と通達したのでした(もちろん、会津藩は、全藩が親兵であるという理由で、特別に藩士を献じることはありませんでした)。なお、4月3日には、親長州の急進派公卿・三条実美が京都御守衛御用掛に任命され、御守衛兵の長となりました。

参考:『続再夢紀事』一p420・『徳川慶喜公伝』(2001.5.5/2003.5.6)
関連:■テーマ別文久3年:「親兵設置問題」 「生麦事件賠償問題」「将軍東帰問題」「水戸藩」■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上洛」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年


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