5月の幕末京都 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■石清水行幸 【京】文久3年4月11日、孝明天皇は攘夷祈願のため石清水八幡宮 に行幸しました。将軍家茂は病と称して供奉しませんでした。 後見職一橋慶喜は攘夷祈願をすませた天皇に社前までくるよう召されました。攘夷の節刀を授けさせようという激派公卿三条実美らの計画だったといわれますが、慶喜はおりからの腹痛(仮病説あり)で山下の寺院で臥せていたため、応じられませんでした。 <おさらい> 石清水行幸は2月28日長州藩の建議によるものでしたが(こちら)、賀茂行幸時同様、尊攘派公卿の強い要求で決まり、3月27日に将軍供奉の沙汰が出ました(こちら)。神前にて天皇から将軍へ攘夷の節刀を授けさせ、攘夷戦争を回避しようとしている幕府を窮地に追い込むことが目的でした。 行幸を前に、先に京都を脱走した過激派公卿中山忠光が長州浪人とともに、行幸途中の天皇の駕籠を奪い、将軍を殺害しようとする計画があるなどの流言が広まりました。4月5日、後見職慶喜はこれを理由に行幸中止を朝廷に建議しましたが(こちら)、長州藩の反対により(こちら)、断行と決まっていました。二条城に変事を示唆する張り紙が張られるなど(こちら)、緊張が高まる中、行幸前日の朝、孝明天皇は体調不良のため延期を希望しましたが、容れられませんでした。その夜、将軍家茂は風邪による発熱を名目として供奉を辞退しました。これは、慶喜の計略だったようです。行幸中、臨時の勅命を下され、将軍が了承することがあっては幕府にとって万事休すだと考えたからです(こちら)。 ●会津藩の将軍供奉中止反対 松平容保は、将軍の供奉中止を聞き、急ぎ二条城に登城して反対しました。風評を怖れて供奉を辞すのは幕威を落すだけで回復の機会をなくすと考えたからです。『徳川慶喜公伝』では会津は供奉辞退の真意をさとらなかったのだろうと推測しています(会津藩が幕府の方針に反対し、結果として孤立した動きをみせるのは、おなじみのことですが^^;)。ちなみに、このとき、容保自身は実父の服喪中で、行幸には同行しませんでした。 また、11日夜に祐宮(のちの明治天皇)を奪って事を起こす計画があるとの噂が流れ、宮中の留守をあずかる右大臣から会津藩に報知がありました。会津藩公用方の秋月悌次郎・広沢安任(富次郎)らが兵を率いて警戒にあたりましたが何事もなく終わりました。 参考:『徳川慶喜公伝』・『昔夢会筆記』・『七年史』・『京都守護職始末』(2001.5.28) 関連:■開国開城「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「賀茂・石清水行幸と攘夷親征」 ■生麦賠償 【江】文久3年4月11日、将軍目代の水戸藩主徳川慶篤が江戸に到着しました。 <おさらい> 慶篤は、3月22日に将軍家茂が東帰を中止したので(こちら)、朝命・幕命によって、将軍目代として、生麦事件償金及び横浜鎖港交渉のために3月25日に京都を出立していました(こちら)。その前日の24日(25日説もあり)には、老中格小笠原長行が実質的な交渉責任者として退京し(こちら)、こちらは4月6日に既に江戸に到着していました(こちら)。 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「水戸藩文久3年」■水戸藩かけあし事件簿 |
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