6月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索  HPトップ

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文久3年5月13日(1863.6.28)
【京】中根靭負、老中板倉勝静に面会し、春嶽の意見書を提出。内容は
「全世界の道理」に基づく国是検討のための外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催
【京】肥後藩沼田勘解由、横井小楠の持論である雄藩の同盟合従策に賛同。

■越前藩の挙藩上京計画
【京】文久3年5月13日、越前藩士中根靭負が、老中板倉勝静に面会し、春嶽の意見書を提出しました。その内容は「全世界の道理」に基づく国是検討のための外国人・朝幕諸侯・草莽の大会議開催を求めるものでした。

春嶽は、3月21日に総裁職辞職届捨てのま退京し(こちら)、小楠のいる福井に帰りました。(同月26日には逼塞)。

京都では、攘夷の議論がますます喧しく、23日、幕府も水戸藩主徳川慶篤に外国処置の委任・東帰を達し(こちら)、24日、参内した慶篤に対して、朝廷は将軍目代として攘夷を成功させるようにとの沙汰を下しました(こちら)。慶篤は25日に出京しました(4月11日に江戸に到着)。春嶽/越前藩は、鎖港交渉が不調に終わって、万一外国船が摂海侵入した時には、挙藩上京して京都を守衛し、さらにニ・三の大藩と連携しての「皇国萬安の国是」確立の建議を・周旋する方針を固め、4月15日には、近隣の加賀藩・小浜藩に使者を送っていました(こちら)

その後、幕府は攘夷期日を5月10日と約束し、慶喜が攘夷実行のために東下するなど、いよいよ鎖港交渉開始が免れえぬ事態になりました。そこで、春嶽は、せめて鎖港交渉を「条理」に基づくものにせんと、中根を京都に派遣して、意見あるところを「演説」させることにしました。

中根 先般、春嶽帰国後は、譴責を蒙り、逼塞しているため、不本意ながら御疎遠に日を送っております。しかし、その後、外夷拒絶の期限をも仰せ出され、いよいよ容易ならざる事態になりましたので、幕府のお考えはどうであろうかと殊に憂慮され、その様子をうかがい、また大樹公の御安否をうかがうようにと、鄙臣を差し出されました。
板倉 春嶽殿の御憂慮はごもっともである。爾来も、「困難の廉が折重り」、恐れ入るのみである。しかし、上様は益々御機嫌よろしく、先日順動丸にて摂・紀・淡等の海岸を巡視された際も、聊かの御障動もなかった。
中根 「交通を御拒絶」あるは容易ならぬ事ゆえ、春岳は兼々心痛いたしておりますが、既に御決定の上は、その是非は暫くおき、せめて、拒絶の手順なりとも、御国辱に至らぬよう御談判あらん事を希望しております。逼塞中ゆえ、表向きの建白は難しいので、靭負に意見を述べるよう申し付けました。その意見はこういうものです(と春嶽の意見書を差し出した)。

●春嶽の建議
要するに
  1. 今、日本では攘夷拒絶の叡慮が即ち国是であり、それは国内では異議なく通用するが、外国側にも事情と国是があり、それで外国側が納得すまい。
  2. 双方が納得するために、「全世界の道理」「地球上の全論」にかけて決着をつけるべきである。
  3. それには、日本側は、諸侯・諸藩の有志・草莽と大会議を開いて外国側の国是を議論し、外国側は、列国で日本の国是を議論する。そして、「条理」をつきつめて、その結果を双方もちよって、交渉し、国内的にも対外的にも全く遺憾のないところへ結着させる
というものでした。

板倉老中は、意見書を再三読み返し、至極もっともであり、こうでなくてはならないと言ったそうです。

春嶽の意見書の概容は↓な感じ(箇条書き、段落分け、意訳by管理人)
この度、攘夷拒絶を決定の上、期限も仰せ出された件については、今さら兎角申し上げることはないが、これほどまで「御危急の御時節」なので、愚案を申し上げる
元来、「攘夷の策略」は、我(=日本側)が「直」を以て彼(=外国側)の「曲」を討つのでなくては、「天地間の道理上」にて「条理」が立たないことは、「天下確定の興論」である。攘夷拒絶に付いては、なおさら、その筋を余すところなく詳明しなくては、「世界」に対して「御国辱」ともなろう。また、(5月)10日より拒絶と(外国側に)いっても、すぐさま打払うわけではなく、十分事情を説明した上で、「御拒絶の御挨拶」をされることと存じる。
とはいえ、方今の「夷情」をみれば、東海(=江戸)で突然兵端を開くことには決してならぬだろう。(外国側も)これまで「皇国の内景」を「洞察」しているようであり、(将軍)御上洛中とはいえ、摂海へ渡来する可能性があると存じる。関東において(幕府が)既に(交易通商を)断ったのに、(外国が)押して渡来すれば、そのときは彼(=外国側)を「曲」として、警衛向に命じ、直に御打払いになるだろうと存じる。
ただし、「外夷拒絶之叡慮」は「即皇国之御国是」であり、今となっては、国内に決して異議もないことだが、「全世界の道理」において必ずしも「是」に帰着するだろうか。この儀(=攘夷拒絶)は「地球上の全論」に懸けねばならぬのではないか。「全世界の必是」でなければ「地球上の必直」とはいえぬ「道理」なので、攘夷拒絶の「曲直」も「地球上の論定」に従うべきだろう。
この度も、(外国側が)東海(=江戸)で(鎖港を)既に承服した後、豹変して、摂海へ迫り、「強暴之争端」を開けば、彼(=外国側)の曲は勿論なので、その際は、成敗を顧みず、「義勇の闘戦」に及ぶほかはない。

もし、(外国側が)東海で(鎖港を)承伏に至り兼ねるゆえに、摂海へ乗込み、兵器を動かさずに、なおまた交渉を希望するなら、我(=日本側)も「平心」を以て、再三再四拒絶の国是たる所以を交渉し、それで承伏となればこの上ないことである。

しかし、当然、彼(=外国)もまた、止むを得ざる事情・国是を以て交渉に臨むので、「是非曲直之公論」が互いに決し難い場合もあろう。その際は、その次第を具さに(朝廷に)奏聞し、彼(=外国側)へも談じた上で、兼て朝廷が御依頼の諸侯はもちろん、天下の候伯・諸藩の有志・草莽の輩に至るまで、偏えに彼(=外国側)の国是を評議し、彼(=外国側)もまた(日本側の)国是を列国と評議し、その上で、各方が「条理」を押しつめて、再び交渉に及ぶべきである。(その結果は)和戦どちらにせよ、「必是必直」(=「全世界の必是」「地球上の必直」)で、内外に毫釐(ごうりん=わずか)も遺憾のないところへ帰着せねばならない
近来、改めて「御委任の沙汰」を下されたといえ、従前の如く「幕府御私の御商量」を以て「曲直」を決めれば、「勝敗」いずれにしても「世界の誹謗」を受け、「皇国の御瑕瑾」ともなるだろう。そのようなことを徳川家が引き起こせば、天朝への不忠はいうに及ばず、御先祖への御孝道もどうなるか。御大切至極の御儀と恐察するので、万死を犯し、此の段言上奉る。
(参考:『続再夢紀事』ニp13-p20)

●外国船「打払い」への懸念
(意見書を再三読み返し)至極もっともだ。こうでなくてはなるまい。
中根 御同意いただけたことは本懐ですが、昨日、国許より、便信があり、江戸表にて御内々に御達しになった書付を得ました。それによれば、(英国側が)30日以内に引払わねば戦端を開くとのことです。そのような交渉では、「曲直」の弁別はないようなものです。
板倉 今月10日を期限に「拒絶」に決し、そこは一橋殿に委任している。一橋殿東下後に、この決議によって交渉するというなら、そうともいえるが、これは交渉の発端であり、漸次、「曲直」の弁別にも及ぶだろう。
中根 いかにも、10日に火ぶたを切られるわけではないでしょうが、朝廷ではそのような「手ぬるき事ハ望まれす無二無三に内拂うへしとの御趣意」だと承っています。
国事掛や寄人の中にはそのような事を申す輩もいるという。重臣方は、10日を期限とするが難しいことになるだろうと御心配されている。

●将軍東帰の見込み
中根 大樹公東帰の程合は如何ですか?
過日、一橋殿・和泉守・拙者の三人で関白殿へ参り、御暇を請い、その際、22日に御暇の参内、23日に御発足と、だいたい決まったが、おそらく春嶽殿同様、(東帰を)「不都合」だと反対する者もいて、一時中止となった。爾来、当方からは願い兼ねている。しかし、際限なく御滞京あっては江戸表の人心も折り合わず、攘夷も行き届きかねるので、拒絶の事は一橋殿に御委任の上、東下させられ、上様は摂海の要地を巡視、それぞれの手配りも定められた上で東帰、と内決した。その後、摂海の巡視も済ませられたので、今回、御暇を仰せ出されねば、またまた機会が過ぎ去るだろう。しかし、既に申したように、当方からは申出兼ねるので、何とか「品よく」朝廷より御暇となるのを待っている。

●危急時の越前藩上京
敦賀警衛も定める予定である。既に御達しはあるか?
中根 未だ何の御達しもありません。もっとも、この時節、越前守は領内の海岸を巡視する心得でいるのすが、慎中でそれもできません。春岳も、帰国の際、家来共へ、今度は「偸安(ちゅうあん)の為め帰国」するのではなく、「天下の御大事にハ何時によらす出馬と心得」よと申し渡しており、聊かも傍観のつもりはありません。
御東下後でも摂海に事あれば、速やかに人数を差し出されるか?。
中根 天朝幕府の御危急と認めれば、君臣とも決して他に後れを取ることなく速やかに馳せ登る覚悟ですが、「曲直是非に拘」らぬ「攘夷の先鋒」はお断り申し上げます。(注:実は摂海に外国船が侵入すれば、挙藩上京するだけでなく、ニ・三の大藩と連携して「皇国萬安の国是」確立を建議・周旋する方なのですが、それは伏せています)

●生麦事件償金支払の事情
中根 償金のことは、最近、「物議紛起」、頗る面倒だと承りました(こちら)。実際どうでしょうか?
在京の諸有司は(償金支払については在府幕府のやったことなので)知らぬ事だが、「薩人殊之外憤激」し、過日、高崎左太郎ほか1名が下坂して大いに責めたてたが、「知らぬに相違き事」なので、事情が分明になった上で返答しようと申して置いた。

その後、上京した竹本甲斐から承った事情はこうである。江戸では償金を支払わぬ策に決したものの、上様御滞京中ゆえ、英国側に対しては、外国奉行が、三ヶ条の内どれかを許諾するつもりだが御東帰の上でなくては確答できない、と伝えたのであり、決して償金を交付するといったわけではない。

元々、(英国の)主張は、生麦一件の償金は薩より受取るが、昨年の事件以来、その処置を決めぬのは「政府の不都合」なので、政府から償金を出すべきだというもの事である。殺害された夷人の妻子等への扶助金を与えた例があるので、今度もその例に倣って交付すべきことに評決したという。つまり、江戸で評決した償金は、最初、英より申し立てた三条中の償金とは聊か意味合いが異なるといえよう。

<ヒロ>
将軍辞職・政権返上を唱えた春嶽ですが、この時点では、まだ、幕府を政権担当能力があるとしてみているようです。しかし、小楠は・・・・↓

同日、肥後藩沼田勘解由に面会して、時事について意見を交換しました。沼田は、横井小楠の持論である雄藩の同盟合従策に賛同し、薩摩に使者を派遣する際に協議しようと述べました

●小楠の雄藩同盟合従策
中根 横井氏(=小楠)の持論は、「方今の世態、各自に其圀を興し、同盟合従して皇国を扶持するにあらされハ到底衰運を挽回する事は難かるへし」との事だが、貴案はどうか。
沼田 もとより聊かの異議もない。既に、海岸防御の事を伝えるために、近々薩摩に使者を遣わすはずなので、その際、この意をも協議する心積である。

<ヒロ>
雄藩が直接朝廷を扶助しようという策ですよね(この後、朝廷参豫会議となって実現します)。小楠は、もう、幕府に見切りをつけているのでしょうか・・・?

参考:『続再夢紀事』ニp13-21(2012.5.6)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

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