7月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3  HP内検索  HPトップ

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文久3年6月6日(1863年7月21日)
【京】朝廷、朝廷、列藩に長州に倣った攘夷(「夷船攘斥」)を促す
【京】小笠原長行処分の沙汰。将軍下坂決定
【京】中川宮、攘夷先鋒となることを請願
【長】奇兵隊創設。

■小笠原率兵上京
【京】文久3年6月6日、朝廷は、幕府に対して一両日中に小笠原長行を厳罰に処するようにとの沙汰を下しました。

「小笠原図書頭以下、今度状況の子細、不用意情態相聞候。過日依頼詰問可有之、老中へ被仰付候へ共、最早不及其儀、図書頭以下急速可処罪科、御沙汰に付、一両日中其処置可有之事」

生麦事件の償金を独断で交付し、あまつさえ率兵上京して攘夷の叡慮を翻そうとした(と朝廷は受け止めている)小笠原は不届きだというのです。

幕府はこれに対し、将軍が直ちに下坂して尋問し、理非を明らかにして処分を決めることを願い出ました。

「謹で奉言上候。小笠原図書頭職録を奪い、大坂城代へ預け、右以下夫々取締、右図書頭官位被停候事件、昨日委細被仰付候趣、奉敬承奉候。右は下坂之上、速に処置候は勿論に候へ共、罪科不軽次第故、時勢切迫に泥み、万一刑罪不中、無所措手足之場合に相成候ては、別て恐入候間、理非明白詰問、不審之廉々随て遂突撃、奉安宸襟候様仕度時宜に寄、家茂直に相尋模様次第、再上京申上候儀も可有御座候へ共、浪花滞留の期限も、右罪状に応じ候へば、右の趣兼て申上置候、若其期に臨み、彼是申上候ては、尊王の意も貫徹不仕、攘夷の決心も如何と被思召候筋に相成候ては、重々奉恐入候間、何卒前条之始末、深く垂被成下候様、奉懇願候、誠恐謹言。
六月 臣 家茂」

朝廷は、強いて滞留を求めなかったそうです。

京都守護職松平容保は下坂の不可を主張し、家老横山主税らも二条城に登城して議論したそうですが、容れられず、将軍の下坂は決定しました。

参考:『徳川慶喜公伝』・『七年史』一(2000.7.21, 2004.7.22)
関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」  ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京

■攘夷期限
【京】文久3年6月6日、朝廷は諸藩に対して長州藩に倣った「夷船攘斥」実行を督促しました。あわせて、長州の打払いを傍観した近隣諸藩を非難しました。

「外夷拒絶期限之事、先達て天下へ布告相成候上ハ、列藩に於て夷船攘斥之心得勿論候處、傍観に打過候藩之有り候趣、深く宸襟悩まされ候。既に長州に於て兵端相開き候。就ては、皇国一体之儀に候間、互いに応接掃攘之有り、皇国之恥辱相成らざる様、闔藩一致決戦尽力、叡慮貫徹致し候様御沙汰候事」(「公純公記」『維新史』三より)

<ヒロ>
幕府は4月23日、諸藩に対して攘夷期限を布告しましたが、対外問題がこじれるのを懸念して、相手が来襲すれば掃攘するが、進んで戦端を開かぬよう命じていました。しかし、長州藩は攘夷期限の5月10日に偶々下関を通りかかった英国商船を砲撃するなど(こちら)、攘夷戦争を開始しました。小倉藩を始めとする近隣の藩は長州に加勢しませんでした。このため、在京の長州藩士及び激派は、朝廷に対して小倉藩の罪を鳴らすと同時に、諸藩に対して長州の攘夷戦争を応援せよとの沙汰を下すよう周旋していたそうです。この日の沙汰は、その結果出たもののようです。

参考:『維新史』三(2004.9.26)
関連:■開国開城「攘夷期限約束」長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「長州藩の攘夷戦争」 「長州藩の小倉侵攻

■中川宮
【京】文久3年6月6日、中川宮は攘夷先鋒となることを請願しました

謹んで申し上げます。短才の尊融(=中川宮のこと)、国事御扶助かつ還俗の命を蒙りながらも、寸効も無く、恐懼の至りです。頃日の形勢、攘夷の期限が定まっても、(幕府は)未だ「捕獲之形」が見られず、因循に日を送り、叡慮を御察して苦心仕っております。そこで、不肖の身を顧ず、恐入りますが、「攘夷先鋒之儀、蒙仰度懇願」いたします。勅許をいただいた上は、普く天下の有志に布告し、その助力を乞い、共に戦死を遂げ、国恩の一端にも報いたく、速かに勅喩(が下されるよう)謹でお待ちいたします。

<ヒロ>
『七年史』によれば、中川宮は、薩摩藩が、5月20日の姉小路公知暗殺事件の犯人として藩士田中新衛が捕縛され、29日に乾門警備を解かれ、九門内の通行を禁止されて以来(こちら)、自らへの嫌疑を避けようとほとんど閑居していたそうです。(急進派は中川宮を「大因循家」と評していたそうです)。『七年史』では、その中川宮が「天下の有志」と攘夷先鋒を務めることを希望した真意は、兵権を握って先ず宮中の急進派を追放し、天皇の考えが通るように謀り、国事を補翼しようとしたのだといいます。でも、それは、後付けの解釈で、どちらかというと、タイミング的には、急進派の嫌疑を晴らすために、つまり保身のために、攘夷先鋒を自ら名乗り出ただけで、単なるパフォーマンスであったような気がします。

関連:◆4/22(6.8):【京】孝明天皇、中川宮に薩摩を上京させよとの密勅
参考:『七年史』一(2004.7.22)
■越前藩挙藩上京計画
【越】文久3年6月6日、越前藩に、将軍東帰との報が届きました。(5日の可能性もあり?)

同日、目付村田氏寿(巳三郎)が京都に向けて出発しました。

6月6日付の小楠書簡の概容は以下のとおり
いよいよ両公の上京に決まり、一藩人心十分激動し、中々盛んな勢いである。この上は、過挙があってはならぬので、京都の事情を十分熟知し、その「條理」に応じて「公平至當之御處置」をすべきだとなった。そこで、一昨日、牧野主殿介・青山小三郎が上京し、今日は村田巳三郎が出立。その他、執政も、京都の情勢に応じて上京の予定である。この面々が十分に働き、見極めた上で、大挙上京するか、平生より増員した程度で上京するかも決め、出京の日限もそのときに決めることになった。
大樹公が、今日、(東帰のための)御発途の様子との報せがあった。甚だ残念である。こうなれば、当方の計画も聊か変わるだろう。朝夕で様子事が変わるので、見極めが難しい。
今回の(挙藩上京の)「本意」の大略は、(一点目の)外国人処置については先便添付の幕府への上書通りで、攘夷拒絶の交渉の際に「彼等」(=外国側)の言い分の「至當之分」は採用になること、(二点目は)幕府の失政の一々が大樹公の思召ではなく、いかに(朝廷が)責められようと大樹公にてはできない事情なので、朝廷が「捗進退」を決められ、有名諸侯を御挙用になり、諸有司も、必ずしも幕士に限らず列藩の有名の士も御登用になり、朝廷が「惣裁」されること、そうすれば、「日本国共和一致」となり、「治平」に帰すだろう、というものである。
「天下之人」は、「例之暴論」を恐れをなし、これまで明白に言上しなかったため、「心と言」が一致せず、そこから「攘夷拒絶も御尤」となり、ついに、現状のような禍乱に陥ってしまった。
「一藩決死之覺悟」がなくては「十分之献言」はできぬし、それを実現することもできぬだろう。今回、は「老生一生」に再びないことであり、「心肝」を尽くしている・・・

<ヒロ>
将軍東帰の勅は6月3日に下付されていました(こちら)。越前藩には6日出立との情報(風聞?)が届いたようですが、将軍はこの日にはまだ京都にいました(上の小笠原率兵上京参照)。実際に

将軍が帰ってしまえば、在京幕府の要人は、守護職松平容保くらいになってしまいます。容保は鎖港攘夷派である上、病弱、また、御世辞にも政治センスもあるとはいえず・・・おそらく小楠の考え/越前藩の藩論を理解できると思えませんし・・・越前藩としては、連携を考えられない相手だったと思います。

参考:『続再夢紀事』二p47-49(2012.5.13)
関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画

■奇兵隊
長】文久3年6月6日長州藩の高杉晋作は、藩主毛利敬親に奇兵隊の創立を提案し、許されました

前日のフランス軍による報復攻撃の惨敗(こちら)から藩を立て直すために、長州は高杉晋作を起用することにしました。この日、下関にやってきた高杉は「策はあるか」との藩主の問いに対して、有志を募って一隊を創設し、奇兵隊と名づけることを提案したのだそうです。

(奇兵隊士金子文輔の日記によれば「奇兵隊」の呼称が公表されたのは11日だそうです)

参考:『長州奇兵隊』・『高杉晋作』(2000.7.21)
関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争

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