7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■小笠原率兵上京 【京】文久3年6月6日、朝廷は、幕府に対して一両日中に小笠原長行を厳罰に処するようにとの沙汰を下しました。
生麦事件の償金を独断で交付し、あまつさえ率兵上京して攘夷の叡慮を翻そうとした(と朝廷は受け止めている)小笠原は不届きだというのです。 幕府はこれに対し、将軍が直ちに下坂して尋問し、理非を明らかにして処分を決めることを願い出ました。
朝廷は、強いて滞留を求めなかったそうです。 京都守護職松平容保は下坂の不可を主張し、家老横山主税らも二条城に登城して議論したそうですが、容れられず、将軍の下坂は決定しました。 参考:『徳川慶喜公伝』・『七年史』一(2000.7.21, 2004.7.22) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 ■攘夷期限 【京】文久3年6月6日、朝廷は諸藩に対して長州藩に倣った「夷船攘斥」実行を督促しました。あわせて、長州の打払いを傍観した近隣諸藩を非難しました。
<ヒロ> 幕府は4月23日、諸藩に対して攘夷期限を布告しましたが、対外問題がこじれるのを懸念して、相手が来襲すれば掃攘するが、進んで戦端を開かぬよう命じていました。しかし、長州藩は攘夷期限の5月10日に偶々下関を通りかかった英国商船を砲撃するなど(こちら)、攘夷戦争を開始しました。小倉藩を始めとする近隣の藩は長州に加勢しませんでした。このため、在京の長州藩士及び激派は、朝廷に対して小倉藩の罪を鳴らすと同時に、諸藩に対して長州の攘夷戦争を応援せよとの沙汰を下すよう周旋していたそうです。この日の沙汰は、その結果出たもののようです。 参考:『維新史』三(2004.9.26) 関連:■開国開城「攘夷期限約束」「長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「長州藩の攘夷戦争」 「長州藩の小倉侵攻」 ■中川宮 【京】文久3年6月6日、中川宮は攘夷先鋒となることを請願しました。
<ヒロ> 『七年史』によれば、中川宮は、薩摩藩が、5月20日の姉小路公知暗殺事件の犯人として藩士田中新衛が捕縛され、29日に乾門警備を解かれ、九門内の通行を禁止されて以来(こちら)、自らへの嫌疑を避けようとほとんど閑居していたそうです。(急進派は中川宮を「大因循家」と評していたそうです)。『七年史』では、その中川宮が「天下の有志」と攘夷先鋒を務めることを希望した真意は、兵権を握って先ず宮中の急進派を追放し、天皇の考えが通るように謀り、国事を補翼しようとしたのだといいます。でも、それは、後付けの解釈で、どちらかというと、タイミング的には、急進派の嫌疑を晴らすために、つまり保身のために、攘夷先鋒を自ら名乗り出ただけで、単なるパフォーマンスであったような気がします。 関連:◆4/22(6.8):【京】孝明天皇、中川宮に薩摩を上京させよとの密勅 参考:『七年史』一(2004.7.22) ■越前藩挙藩上京計画 【越】文久3年6月6日、越前藩に、将軍東帰との報が届きました。(5日の可能性もあり?) 同日、目付村田氏寿(巳三郎)が京都に向けて出発しました。 6月6日付の小楠書簡の概容は以下のとおり
<ヒロ> 将軍東帰の勅は6月3日に下付されていました(こちら)。越前藩には6日出立との情報(風聞?)が届いたようですが、将軍はこの日にはまだ京都にいました(上の小笠原率兵上京参照)。実際に 将軍が帰ってしまえば、在京幕府の要人は、守護職松平容保くらいになってしまいます。容保は鎖港攘夷派である上、病弱、また、御世辞にも政治センスもあるとはいえず・・・おそらく小楠の考え/越前藩の藩論を理解できると思えませんし・・・越前藩としては、連携を考えられない相手だったと思います。 参考:『続再夢紀事』二p47-49(2012.5.13) 関連:■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」 ■奇兵隊 【長】文久3年6月6日、長州藩の高杉晋作は、藩主毛利敬親に奇兵隊の創立を提案し、許されました。 前日のフランス軍による報復攻撃の惨敗(こちら)から藩を立て直すために、長州は高杉晋作を起用することにしました。この日、下関にやってきた高杉は「策はあるか」との藩主の問いに対して、有志を募って一隊を創設し、奇兵隊と名づけることを提案したのだそうです。 (奇兵隊士金子文輔の日記によれば「奇兵隊」の呼称が公表されたのは11日だそうです) 参考:『長州奇兵隊』・『高杉晋作』(2000.7.21) 関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別文久3年:「長州藩の攘夷戦争」 |
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