8月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ
◆6/21へ ◆6/23へ
■守護職の職権確立 【京】文久3年6月22日、将守護職松平容保は、将軍東帰を受け、家老田中玄清(土佐)を東下させて、幕府に対し、梱外の全権を含む「此後之勤向」に係る種々の要請をしました。 田中土佐にもたせた書簡の概容は次の通り。
幕府は会津藩の要請をほとんどのみましたが、対朝廷費用については金額を明記しなかったので許可されず、また、将軍目代の件は慶勝が承知しないだろうということで裁可されませんでした。 <ヒロ> ●会津藩の要請背景 会津藩が「勤向」に関する要請にいたった事情は、『京都守護職始末』によれば、次の通りです。容保の上京時、幕府から「委任の條件」があり、会津藩にとっては「論ずべきもの」があったものの、将軍が永く滞京して禁闕を守護するということだったので、「別に論ずるには及ばず」と考え、そのままにしておいた。ところが、将軍がついに東帰したため「今は黙止すべきにあらず」と土佐を東下させることになった・・・と。 実は、文久2年、会津藩は京都守護職を引き受けるにあたって、幕府に対して京都守護の全権委任を要請していました。しかし、翌3年3月に「将軍上洛し親しく守護したまえる」と決まったこと、いったん将軍が上洛すれば、会津藩は将軍の滞京による直接守護を勧めていたので、自身の京都守護に関する職掌について議論する必要を感じなかったようです。ところが、将軍帰府の上、慶勝まで帰国して、現況のままでは非常時に対応できないと考え、急ぎ家老を江戸に送ったものと思われます。 慶勝を将軍目代として滞京させることをまず希望しているのは、現況、政治的責任をとる者が不在であること(守護職の職掌に政治的判断は含まれていないという認識)に加えて、容保の異母兄である慶勝が京都にいれば何かと心強く思われるからでしょう。 参考『京都守護職始末』p138-139・『七年史』一p356-357、『会津藩庁記録』三p485-486(2001.8.6、2002.8.8) 関連:■「覚書」京都守護の全権委任問題 ■久光召命(近衛家) 【京】文久3年6月22日(推定)、近衛忠煕前関白・忠房父子は、鹿児島の島津久光に、長州藩への攘夷監察使下向、前尾張藩主徳川慶勝帰国許可に関する朝廷の内情を報じ、早々の「奮発」を促しました。
■薩英戦争 【横】文久3年6月22日、英国代理公使ニールは艦隊を率いて横浜を出港し、鹿児島に向かいました。 英国は前年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていました。5月、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払いました。英国は、次に薩摩と直接交渉するため艦隊を率いて鹿児島に向かいました。 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「薩英戦争」■テーマ別:「薩英戦争」■薩摩藩日誌文久3 その他の主な動き 【京】議奏飛鳥井雅典(中納言)、坊城俊克に代わって武家伝奏に任ぜられる(『綱要』四) |
|