8月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月22日(1863年8月6日)
【京】会津藩、家老田中土佐を東下させ、幕府に種々の要請(梱外の全権等)。
【京】近衛忠煕前関白・忠房父子、鹿児島の島津久光に書を認め、長州藩への攘夷監察使下向、
前尾張藩主徳川慶勝帰国許可に関する朝廷の内情を報じる。

【横】薩英戦争(1)英国代理公使ニール、艦隊を率いて横浜を出港

■守護職の職権確立
【京】文久3年6月22日、将守護職松平容保は、将軍東帰を受け、家老田中玄清(土佐)を東下させて、幕府に対し、梱外の全権を含む「此後之勤向」に係る種々の要請をしました

田中土佐にもたせた書簡の概容は次の通り。
「此後之勤向之儀」について、嘆願の箇条を家臣に持たせて差下します。何分にも右箇条通り御許容下さるよう願います。さもなくば「此後之勤め向何共覚束なく自然御免相願」うことにも拠無く至るだろうと、深く心配仕ります。宜しく御汲み取りになるよう願います。右家臣へ当地の事情等委細申し含めましたので、何卒御聞き取りいただきますよう願います。
別紙
前尾張藩主徳川慶勝(注:容保の異母兄。前21日帰国)を将軍目代として永く京都に置く
大小目付御勘定奉行御祐筆の類を置いてほしい
朝廷からの要請で費用が多くかかっても、大概の件は(幕府に)伺いを立てず、こちらで取り計らいたい
幕府への伺いには、遅滞なく回答願いたい
「梱外の全権」を守護職に任せ、所司代・町奉行役人の選出・賞罰・進退を委任し、その他、非常の際の京都の守護に関して、「近國諸大名大坂奈良伏見奉行始、後々共守護職の得指図、相勤候様、御沙汰」を下されたい 
守護職付高家を二名程置いてほしい
(出所:『京都守護職始末』p138-139の老中宛書簡より作成)

幕府は会津藩の要請をほとんどのみましたが、対朝廷費用については金額を明記しなかったので許可されず、また、将軍目代の件は慶勝が承知しないだろうということで裁可されませんでした。

<ヒロ>
●会津藩の要請背景
会津藩が「勤向」に関する要請にいたった事情は、『京都守護職始末』によれば、次の通りです。容保の上京時、幕府から「委任の條件」があり、会津藩にとっては「論ずべきもの」があったものの、将軍が永く滞京して禁闕を守護するということだったので、「別に論ずるには及ばず」と考え、そのままにしておいた。ところが、将軍がついに東帰したため「今は黙止すべきにあらず」と土佐を東下させることになった・・・と。

実は、文久2年、会津藩は京都守護職を引き受けるにあたって、幕府に対して京都守護の全権委任を要請していました。しかし、翌3年3月に「将軍上洛し親しく守護したまえる」と決まったこと、いったん将軍が上洛すれば、会津藩は将軍の滞京による直接守護を勧めていたので、自身の京都守護に関する職掌について議論する必要を感じなかったようです。ところが、将軍帰府の上、慶勝まで帰国して、現況のままでは非常時に対応できないと考え、急ぎ家老を江戸に送ったものと思われます。

慶勝を将軍目代として滞京させることをまず希望しているのは、現況、政治的責任をとる者が不在であること(守護職の職掌に政治的判断は含まれていないという認識)に加えて、容保の異母兄である慶勝が京都にいれば何かと心強く思われるからでしょう。

参考『京都守護職始末』p138-139・『七年史』一p356-357、『会津藩庁記録』三p485-486(2001.8.6、2002.8.8)
関連:■「覚書」京都守護の全権委任問題
■久光召命(近衛家)
【京】文久3年6月22日(推定)、近衛忠煕前関白・忠房父子は、鹿児島の島津久光に、長州藩への攘夷監察使下向、前尾張藩主徳川慶勝帰国許可に関する朝廷の内情を報じ、早々の「奮発」を促しました。

「朝議グレ付候御事」は、傍観の身ながらも、行末どうなるかと「痛歎」の限りない。其許も篤と事情をご理解の上、「早々御奮発」されたい。
長州は攘夷を開始したというので、格別に御依頼の勅命が出され、殊に「暴論」家のうち、正親町少将が監察使とかいう名目で下向することになったが、実にもって一切分明ではなく、何とも後患を恐れる次第である。この監察使の一件についても、三条中納言が「一鼻立言上」し、専ら周旋したものであり、左府(=一条忠香)以下「勅問之御人数」の面々へは御沙汰なく仰せ出され、(正親町は)速かに御請申し上げた由。実にもって監察使とか申すことなど、甚だ容易ならざる儀であり、あれこれ申し立てたが、最早出立後であった(注:出京は6月16日)。何分、前もって承知せぬ儀である故、とかくの致し方もなく、実に嘆かわしい。
尾張前亜相(=前尾張藩主徳川慶勝)も、帰国を願われる様子なので、両人より、書をもって、また成瀬隼人正始め家臣を呼び寄せて翻意を促したが、聞き入られず、押して帰国を願われたところ、御聞届けになった。二条右府公(=二条斉敬)、徳大寺内府公(=徳大寺公純)などは専ら引き留めたい了見で、帰国延引を建白致し、いろいろ申し立てたが、議奏あたりで登用されない。右府らから書面で諌止したが、一向に応じられず、既に昨朝出立・帰国に及ばれた(注:慶勝退京は6月21日)。最早致し方なきことゆえ、この上は、其許が御上京されれば、前亜相にも早々上京されるよう申し入れ置いた。
(出所:6月下旬付島津三郎殿宛忠煕・忠房書簡『玉里島津家史料』ニp347-348より作成。箇条書き、()内by管理人)

■薩英戦争
【横】文久3年6月22日、英国代理公使ニールは艦隊を率いて横浜を出港し、鹿児島に向かいました。

英国は前年の生麦事件の下手人引渡しと償金支払いを幕府と薩摩に求めていました。5月、幕府は、老中格小笠原長行の決断で償金を支払いました。英国は、次に薩摩と直接交渉するため艦隊を率いて鹿児島に向かいました。

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「薩英戦争」■テーマ別:「薩英戦争」■薩摩藩日誌文久3

その他の主な動き
【京】議奏飛鳥井雅典(中納言)、坊城俊克に代わって武家伝奏に任ぜられる(『綱要』四)

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