8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月23日(1863年8月7日)
【京】足利三代将軍木像梟首犯の罪科が定まる
【京】諸藩の親兵、朝旨によって、中川宮家士の山田勘解由・同伊丹蔵人を捕縛
【京】越前挙藩上京:真木和泉、桂小五郎に越前藩挙藩上京阻止を相談
【江】薩英戦争:幕府、在江戸薩摩藩家老喜入摂津に、英国艦隊の横浜出の藩に急報・穏便な措置を命ず

■足利三代将軍木像梟首事件
【京】文久3年6月23日、足利三代将軍木像梟首犯の罪科が定まりました

大庭恭平
師岡節斎
遠島。当分松平伊賀守預け。
青柳健之助
建部建一郎
遠島。当分藤堂佐渡守預け。
長沢真古登 遠島。当分西尾謙之助預け。
郁三郎 永牢。
野呂久右衛門 洛中追放。当分小笠原左衛門佐預け。
西川善六 山城国中構い、江戸十里四方追放。当分親類預け・押込。
三輪田綱一郎 百日押込。当分京極飛騨守預け。
宮和田雄太郎 洛中洛外追放。当分、土方智千代預け。
等持院役僧
功運院
福泉院
急度御叱り

参考:『七年史』一p358-360(2004.7.27)
関連:■テーマ別「足利木像梟首事件」■志士詩歌「足利木像梟首事件

■会津藩vs尊攘急進派

【京】文久3年6月23日、水戸・肥後・長州・土佐等諸藩の親兵が、朝旨によって、中川宮家士の山田勘解由・同伊丹蔵人を捕縛しました。その理由は楠木正成の墓に代参と称して西下しようとしたというものでした。

実は、最初、会津藩に捕縛が命じられたのですが、会津藩はこれを固辞したたため、朝廷は、親兵に命じて捕縛させました。

木下 今、御所から、中川宮の家来の山田勘解由・伊丹蔵人の両人を捕縛せよとの命を貴藩に達せよとの御沙汰がありました
野村 いかなる罪でしょうか。妄りに高貴の邸に赴いてその家臣を捕縛するような命には容易に奉じがたいことです。
木下 では、共に朝廷に参り、その理由を問いましょう。
(野村は辞したが、木下は聞き入れず、両名、飛鳥井に謁して、捕縛の要について尋ねると)
飛鳥井 彼らは平生から疑う者が多いのだが、今になり、俄かに西国に下ろうとしているときく。これは、策略のある証として十分であるので、急いで捕縛せよ。
野村 その西下の理由も未だ不明な上、高貴の方の家臣ですので、容易には手を下し難いことです。これまで、このような場合は、どのように捕縛の命を出されていましたか?
飛鳥井 常に町奉行に命じていた。
野村 大いにそうでありましょう。守護職による捕縛は順序を失うものですので、この命はお請けしがたいことです。
(飛鳥井は再三守護職による捕縛を主張したが、野村は固辞して帰邸した)

参考:『七年史』一p357-358,『会津藩庁記録』三p486-487、『維新史料綱要』四p474

■薩英戦争
江】文久3年6月23日、幕府は、在江戸薩摩藩家老喜入摂津に対し、英国艦隊の横浜出帆(22日)を藩地に急告するよう命じるとともに、穏便に措置することを指示しました。(『綱要』四)

関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」「薩英戦争」■テーマ別:「薩英戦争」■薩摩藩日誌文久3

■越前藩の挙藩上京計画
京】文久3年6月23日、真木和泉は、長州藩桂小五郎に越前藩挙藩上京阻止を相談しました

関連:■テーマ別「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
*出典を書き忘れていました・・・がちょっと探せません。みつけたら書きに来ます。

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