8月の「今日」 幕末日誌文久3 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年6月21日(1863.8.5)
【京】徳川慶勝帰国。京都における守護職の孤立/
【京】朝廷、一橋慶喜の後見職辞表を却下/
【京】村田巳三郎(氏寿)、吉井幸輔・沼田勘解由らを訪問/
【京】久坂玄瑞、村田次郎三郎・中村九郎と協議。
三条実美に諸藩を攘夷に参加させるよう請う。

■朝廷の歳費
【京】文久3年6月21日、京都守護職松平容保は東下した将軍に委託された通り(こちら)、御所入費(公卿への禄など)を年15万俵(幕府からの献納)に増進することを上奏し、決定にいたりました

■守護職の孤立
【京】文久3年6月21日、前尾張藩主徳川慶勝(松平容保の異母兄)が帰国しました

容保の実兄である慶勝は、4月21日、将軍退京・下坂時に、将軍輔翼に任命されていました(こちら)。東下した老中及び容保は慶勝に大坂城に留まって守護にあたるよう、適わなければせめて滞京するよう要請していましたが、慶勝は応じませんでした。

6月中に、近衛忠煕前関白父子が鹿児島の島津久光に報じたところによると、慶勝は二条斉敬右大臣らの反対をも押し切って帰国した模様です。
尾張前亜相(=前尾張藩主徳川慶勝)も、帰国を願われる様子なので、両人より、書をもって、また成瀬隼人正始め家臣を呼び寄せて翻意を促したが、聞き入られず、押して帰国を願われたところ、御聞届けになった。二条右府公(=二条斉敬)、徳大寺内府公(=徳大寺公純)などは専ら引き留めたい了見で、帰国延引を建白致し、いろいろ申し立てたが、議奏あたりで登用されない。右府らから書面で諌止したが、一向に応じられず、既に昨朝出立・帰国に及ばれた(注:慶勝退京は6月21日)。最早致し方なきことゆえ、この上は、其許が御上京されれば、前亜相にも早々上京されるよう申し入れ置いた。
(出所:6月下旬付島津三郎殿宛忠煕・忠房書簡『玉里島津家史料』ニp347-348より作成。箇条書き、()内by管理人)

旧会津藩士山川浩の著わした『京都守護職始末』では、慶勝が要請に応じず帰国した理由は@難局にあたるのを苦に病んだこと、かつA国許が藩主茂徳派と前藩主慶勝派に分かれて争う深刻な情勢になったためのようです。
「朝議是乎、幕府非乎、之を論ずるに及ばずと雖も、公武の議表裏せること斯の如くなれば、尾張慶勝卿も此難局に當るを病み、加ふるに大納言茂徳卿先に江戸の留守を誤られしより、圀中多く慶勝卿を慕ひ、為めに漸く人心二振に分かるヽの情勢に赴くより、内願の情切にして、遂に病と称して出でず、我公目下の大勢を説いて、共に協力あらんことを懇告再三に及ぶも、卿敢て應ぜず・・・二十一日圀に帰る」
(出所:『京都守護職始末』p137-138)

慶勝の帰国により、容保は、幕府の役職にある唯一の有力者として滞京することになり、会津藩/守護職は尊攘急進派の牛耳る京都政局で孤立していくことになりました

「実に少子も不行届の段(注:慶勝大坂守護あるいは滞京を説得できなかったこと)、なんとも恐縮の至りに御座候。摂城(注:大坂城)に御出で御座候わば、大きに心強く御座候ところ、御帰国にては小子も心痛仕り候次第に候。ひとえに御憐察希(ねが)い奉り候」(『七年史』一(文久3年)7月16日の条の老中宛松平肥後守書簡より)
「是に至りて公武の間に立て、両議の表裏を調理して(=双方の議の表裏をとりはからって)一和を図るは独り我公あるのみ。しかも一旦大事あるも(=大事件が起っても)他にこれを謀るべき有力の人なく、守護職は全く孤立の勢とれり」(『京都守護職始末』p138)
「守護職は遂に孤立の姿となりて、世務弥難し」(『七年史』p356)

*ちなみに容保の実弟である桑名藩主松平定敬も、前20日に参府のため出京していました。

参考:『京都守護職始末』・『七年史』一p355-356(2001.8.5)
関連:■開国開城「将軍東帰と京都守護職会津藩の孤立

■越前藩挙藩上京計画
【京】文久3年6月21日、越前藩監察村田巳三郎(氏寿)が、薩摩藩士吉井幸輔・越前藩牧野主殿介(番頭)・肥後藩士沼田勘解由を訪問しました。福井から鹿児島・熊本への使者派遣を決定したとの知らせがあったため、予め、両藩の領内通行に支障ないよう依頼するためでした

●おさらい
越前藩では、6月1日に、「身を捨て家を捨て国を捨る」覚悟で挙藩上京して(1)各国公使を京都に呼び寄せ、将軍・関白を始め、朝廷幕府ともに要路が列席して彼我の見るところを講究し、至当の条理に決すること、(2)朝廷が裁断の権を主宰し、賢明諸侯を機務に参与させ、諸有司の選抜方法としては幕臣だけでなく列藩中から広く「当器の士」を選ぶよう定めることを決めましたが(こちら)、4日には慎重論を説く中根雪江の意見を容れたかたちで、京都に藩士を送り、その報告をもとに進発日を決めることにしました(こちら)。これを受けて、村田は6日に上京しました。12日には薩摩藩士高崎左太郎(正風)・吉井幸輔に藩論を説き、同意を得ましたが、時機を待つよう助言されました(こちら)。翌13日には、肥後藩沼田勘解由に越前藩の計画を伝え、藩主細川慶訓の弟・長岡良之助(護美)の上京を促しました。沼田は個人としては同意しましたが、藩として動くには、春嶽が藩主に直書を送って説得することが必要だとの認識をしめしていました(こちら)。

参考:『続再夢紀事』ニ(2004.7.28)
関連:テーマ別■「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

その他の動き
【京】武家伝奏坊城俊克辞任。
【京】久坂、村田次郎三郎・中村九郎と協議。三条実美に諸藩を攘夷に参加させるよう請う。
【鳥取】因幡藩主池田慶徳、上京の途につく(『綱』四)

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