■禁門の政変(文久政変)へ (後2日)
(1)8月16日の未発の政変
【京】文久3年8月16日早朝、会津・薩摩と連合する中川宮は、西国鎮撫辞退を口実に、他の公卿の参朝前に参内して、孝明天皇に対し、尊攘急進派公卿の処分を請いました。天皇は計画に理解を示したものの、処分の内勅は下りず、この日の政変は未発に終わりました。
例によって、時系列、内容に齟齬がある関連史料から流れを再現してみると・・。(右欄は参考史料番号)
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16日朝:中川宮は去る8月9日に命じられていた西国(九州)鎮撫使の辞退を上奏するという口実で参内した。当初の計画では、未明に参内し、他の公卿が参内を始める前に密奏するはずだった。 |
E,F |
A |
16日朝:中川宮の直奏に対し、孝明天皇は「尤」だとはいうものの、急進派処分の内勅は出さなかった。(理由として、朝廷内に天皇の命令を言葉通り伝える者がいないから、その時機ではないと危ぶんだから、等が伝わっている。天皇はかねての痔痛でトイレに時間がかかり、中川宮が十分に策を言上できなかったという、政変後の中川宮談話もあり)。 |
A-G |
B |
16日朝:会津・薩摩の両藩は、公卿参内前に政変の内勅を得て、中川宮の退出を待って行動を起こす手はずで準備をしていた。しかし、中川宮がなかなか退出せず、そのうち急進派の国事御用掛達が続々と参内しだした。さらに、中川宮が退廷したと伝わってきた。 |
A,B.D
E,F,G |
C |
16日:高崎左太郎・秋月悌次郎・広沢安任が中川宮のもとに様子を確かめに向かった。内勅が下りなかった事情を聞き、一同落胆した。(但し、明17日夜にはという内旨があり、一安心したという、政変後の秋月談話あり) |
A,B.D
E,F,G |
(A).「京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書」(『玉里島津家史料』ニ)、(B).『伊達宗城在京日記』(文久3年11月2日の条)、(C).『続再夢紀事』一(同年11月7日条)、(D).『続再夢紀事』一(同年11月16日条)、(E)鞅掌録」(『会津藩庁記録』三)、(F)『七年史』一、(G)『京都守護職始末』
(2)会津・因幡に処理させよとの内勅
【京】8月16日夜/17日朝、孝明天皇はひそかに中川宮のもとに使いを派遣し、朝の奏事を熟慮した結果、会津・因幡両藩に処理させるようにとの内勅を下しました。
中川宮・薩摩は関与が為にならぬという理由で、勅命の決行者からは除外されていましたが、薩摩藩は、あくまで当初の計画通り、中川宮・会津・薩摩で実行すべきだと主張しました。
さらに、近衛前関白・二条右大臣の同意を取り付けるというので、中川宮も当初計画通りでいくことを決断しました。
D |
16日夜:孝明天皇は、中川宮に対して、因幡・会津に処置させよとの内勅を下した。 |
A,B.
E,F,G |
E |
16日夜/17日未明:薩摩藩は会津藩から政変決行の密勅が下りたとの報せを受けた。真偽を確かめるために、高崎左太郎が中川宮のもとに向かった。 |
A,B. |
F |
16日夜/17日朝:中川宮は、勅命は会津・因幡に対してであること、中川宮・薩摩藩が入っていないのは、「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」だということを説明した。左太郎は、中川宮の指揮が必須であること、ここに及んで他藩(=因幡)に命じられては「不相済」ことを訴えた。さらに、近衛前関白・二条右大臣の同意を取り付けるというので、中川宮も当初計画通り実行することを決断した。 |
A,B. |
(A).「京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書」(『玉里島津家史料』ニ)、(B).『伊達宗城在京日記』(文久3年11月2日の条)、(C).『続再夢紀事』一(同年11月7日条)、(D).『続再夢紀事』一(同年11月16日条)、(E)鞅掌録」(『会津藩庁記録』三)、(F)『七年史』一、(G)『京都守護職始末』
<ヒロ>
あ〜、孝明天皇は(会津藩と同じくらい)因幡藩を頼りにしていたんですね・・・。それを・・・。因幡藩内には長州寄りの尊攘急進派も少なくないので、万一にも計画の漏えいが恐れられたとか、そういう理由ならまだしも、薩摩藩の功名心からはじかれてしまったとは。因幡藩関係者は内勅が下りていたことをずっと知らなかったようで、『贈従一位池田慶徳公御伝記』でも、内勅が(因幡・会津ではなく)会津に下りたと書かれています。せつない・・・。
●孝明天皇が因幡・会津を内命したのは?
関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3
参考:『玉里島津家史料』ニ、『伊達宗城在京日記』、『続再意夢紀事』一、『会津藩庁記録』三、『京都守護職始末』、『七年史』一(2001.9.27,2004.10.7,
2013.1.19)
A: 同年8月中(推定)に作成された奈良原幸五郎覚書(意訳by管理人。以下同様)
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(宮は)十六日の辰之刻(=午前8時頃)に御参内。叡慮を伺った上で、すぐさま薩・会を御召しになる予定だったので、(薩摩藩は)間断なく応じる覚悟で、二本松屋敷の藩兵にも達して早々に軍備を整え、今や遅しと待っていた。すると、意外にも、宮様が只今お帰りになったと聞き、取るものも取りあえず、左太郎が参殿し、事情を伺った。武田相模守を通して承ったところでは、今朝(宮が)参内して叡慮を伺ったところ、(主上は)「趣意ハ尤ニ候得共、只今ニ至リテハ、禁中一人モ其命ヲ伝候者無之候間、致方無之候間、致方無ト(中川宮の言上内容を)御合点不被遊候付」、是非なき仕合である、ということだった。(これを知った薩摩の)一同は頓と力を落した。第一、このことが世間に漏れては「実ニ一大事」なので「大ニ心配」し、なるべく目立たぬよう、そろそろと人数を引き上げたが、既に世上の評判になった由。
翌十七日四ツ(=朝10時頃)過、会津藩の両人が参り、(彼らが言うには)只今宮へ参殿し、武田相模守から承ったのだが、今日、主上から宮へ「御書」(=宸翰)が下り(注)、その内容は薩・会が申し合わせて早々に奮発せよだというので、飛ぶが如く走って参ったとのことであった。(薩摩側は)昨日のこと(=天皇が政変の趣意に賛同したにも関わらず内勅を下さなかったこと)もあり、甚だ不審に思い、今一度(宮に)直に伺う方がよいだろうと打ち合わせ、またまた左太郎が参殿して、押して御目通りを願い、直にお伺いした。すると、(宮は)それは間違いである、(天皇からは)「会津・因州申合可為挙事」との御沙汰であり、「宮ハ勿論薩モ一節不立障様トノ御事」ゆえ、とても事は成らぬと考え、案じているところだと言われた。 |
(出所:京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書『玉里島津家史料』ニp426より作成。、()内、下線by管理人)
B. 同年11月、伊達宗城が高崎左太郎から聞き取った事情
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(主上が宮の直奏を)「御聞啓」きになれば、早速(中川家の諸大夫)武田相模守から連絡がある予定で、待っていたが、一向に御沙汰がなかった。そのうち宮が御退散されるというので、「切歯失望」したが、なしようもなく「すこすこ御供」して帰殿した。早速、(宮の)御側に上がり、お話しをうかがったところ、主上も「尤之儀」とは「御聞啓」きになったものの、「何分奸党勢さかん故容易ニ軽率之事ハ不宣」との御沙汰があり、「尚考量」致せと仰せ出されたので、致し方なく、再考仕ります、と申し上げて退出してきたとのことだった。左太郎も残念で堪らず、歯噛みしたが、それでは御賢考を、と申し上げて屋敷へ帰り、同志の者へ話して聞かせたところ(原文注:「御英断御処置」なので止むを得ず頭分へは詳しく話したとのこと)、大いに憤激し、もはや堪えがたい、これから転法輪殿(=三条実美)へ押しかけようと騒ぐので、種々なだめすかし、ようやく鎮静した。
それから、強情者を連れて酒棲へ参り、酒を飲ませていたところへ、会津藩の秋月がやってて、尹宮へ先刻、御宸筆が下り、急に「處置」すべしとの叡慮を仰せ出されたとの密話に及んだ。左太郎は、今朝(=
16日)は云々の御沙汰があり、左様仰せられたというのは甚だ覚束なく存じるが、(中川宮に)直に伺うので、皆々は帰って待っていろ、と言って、(宮邸に)参殿した。(宮に)伺ったところ、御宸翰は下されたが、叡慮は、今夜決断・処置せよ、尤も宮も薩も関係は為にならぬので、因州・会津に取り計らわせよ、だったいう密話をされた。 |
(出所:『伊達宗城在京日記』p209-214(文久3年11月2日条)より作成。()内、下線by管理人)
C. 同年11月、中川宮が松平容保同席の下、松平春嶽に語った事情
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「激徒等の粗暴愈増長して何分捨置かたかりし故」、会藩へ申し談じ、予め策を定めて、八月十六日早朝参内した。主上はお目覚め前であったので、特にお目覚めを願ったが、「兼て御痔痛在らせられ、御用場にて殊の外時刻を移らされられ」たため、はからずも辰の刻近くになり、国事掛などが参内し始めたので、この日はその「定策」を奏上せぬうちに退出した。 |
(出所:『続再夢紀事』ニp224-229(文久3年11月7日条)より作成。()内、下線by管理人)
D. 同年11月、越前藩士中根雪江が秋月悌次郎から聴き取った事情
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十六日に決行の手はずとなり、肩唾を呑んで待っていたが、宮は参内後ほどなく退廷され、何の御沙汰もなく、一時は非常に嘆息した。直ちに宮のもとに参上すると、本日は余儀なき都合で延期となったが明日は夜に入り必ずとの御内旨があったため、いささか安心した。一日延期したので、宮は如何なる変を生ずるかと苦悩され、我々も苦心いたした。 |
(出所:『続再夢紀事』ニp233-235(文久3年11月16日条)より作成。()内、下線by管理人)
E. 広沢安任の手記「鞅掌録」(作成時期不詳)
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十六日、神事が終わって、中川親王が参内された。(親王は、参内時には)親しく真の叡慮を伺い、それ次第で左右の姦を除き去り、力が足らねば、我公(=松平容保)に藩兵を出させて、力を尽くすおつもりだった。親王が御前に進まれると、天皇も「大に憤興」され、「叡断」して「暴徒を除」かれようとしたが、時機尚早しとして大に危まれ、親王にも其事(=政変)に与からず、武家の力でなすことを欲された。よって親王に対し、堅く秘して漏洩せぬように戒められた。親王の報を待ちながら、(大野)英馬・(秋月)悌次郎・(松坂)三内・(柴)秀次及び(広沢)安任等は(御所の)唐門前の(会津藩の番所の)幕中にいた。はじめ、親王は、寅刻(=午前4時頃)、「暴徒」が参朝する前に参内されるはずであった。しかし、卯刻を過ぎても参内されず、辰刻(=午前8時頃)になろうとして、ようやく参内された。このとき、親王は、事の必成を見ぬうちは、幾日夜を連ねようとも、天前を退かぬ決心であると、私に高崎左太郎等に語られた。ところが、少しして宮中より(宮)還御が伝わってきた。その間、「暴徒」ニ、三人が参内するのを見て、皆、事は敗れた、と言い、思わず腋下に汗が流れた。左太郎も、また、失望して、(中川宮が)こうまで一度び決心されたのに、その事を遂られぬのでは、親王は寄るに足らぬ、と言う。英馬・秀次等は走って黒谷(=会津藩本陣)に報じ、悌次郎及び安任は親王の館に行き、武田相模守を通して命を待ち、親王及天皇には叡決し玉え共、勢の成し難きを以て、後の機会を待しめ玉うと云うことを知らされた。親王の参内は鎮撫(=西国鎮撫使)辞退だと思われたため、天皇が深密の勅を下されたことを知る者はない。しかし、親王は事敗れたりとし、帰臥して嘆息された。
此夕(=16日夕)、天皇は、書を親王に下され、会津と因州と談合して威力を以て害を除かしむべしと命じられた。親王が直接害を除くは名義に在り、之を棄て専ら威力を頼めば却て賊名を負て事なるべからず。此の如きは以て命ずべきに非ずといわる」 |
(出所:『会津藩庁記録』三より作成。()内、下線、段落分けby管理人)
F.『京都守護職始末』
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十六日寅刻(=午前4時頃)、中川宮が九州鎮撫使辞任を上奏するように装って参内されたが、誰一人疑う者はなかった。よって、宮は、密かに奸臣を除く議を奏上した。「主上素より其叡念あらせ給ふと雖も、時機に於て未だ危疑し玉ふ所あるを以て、暫く許したまはず」。辰刻(=午前8時頃)に及び、宮は遂に退出された。最初、安任・胤永・左太郎が中川宮に伺候した際の計画では、宮は未明に参朝し、早天、諸堂上の参朝する前に勅許を得、会薩の兵で御所の門を固め、勅許を得ぬ堂上以外は一人も入朝を許さずに事を謀るはずだった。しかし、宮が未だ退朝されぬうちに、堂上の人々、中にも過激派の国事掛が既に続々参内し、当初の策を実行することはできなかった。安任・左太郎等は、「事既に敗れたり」とみて、賀陽殿(=中川宮)に伺候する一方で、急を黒谷(=会津藩本陣)に報じた。宮に謁し、事情を伺うと、未だ事が敗れたわけではなかった。しかし、この密議が万一洩泄すれば、宮の御身に取り、由々しき大事となるは必定なので、宮も大に苦慮せられ、若し事が漏れれば、速に東行して名古屋に行くしかあるまいと大息されたという。
是夕十六日主上は宸翰を中川宮に賜い、「因州会津の兵に令し、兵力を以て国家の害を除くべし」と命じられた。主上が殊に因州を指定されたのは、そもそもの理由がある。先に池田慶徳朝臣が叡慮のある所を知り、親征を諌止しようと、これを二条斉敬公に謀った(注1)。公も同意され、中川宮と謀った(注2)。宮が内奏されたところ、朝廷において論議され、嘉納されることになった。慶徳は、池田茂政朝臣、蜂須賀茂韶朝臣、上杉斉憲朝臣と協議し、ともに参内して親征の不可を論議した。殿下及び過激の堂上らは、朝臣の議を悦ばず、殿下は怒って(慶徳らを)退出させ、暫くして、次のような勅を四候に伝えた。「幕府荀且既に久し、ゆえに朕が意決せり」と。四候は恐縮して退出した。叡慮は嘉納されようとしたが、恐れ多いことに、遂に叡意の通りなされることが不可能であった。慶徳朝臣は、叡意戸に惑い、真の逆鱗に触れたと思い、待罪書を出されたとある。主上が特に因州の兵をと勅を賜われたのは、上の事があるという。 |
(出所:『京都守護職始末』p170-171より作成。()内、下線、段落分けby管理人)
注1 |
二条右大臣が、天皇の意を受けて、因幡藩・備前藩に、親征阻止を謀ったという方が正しい。 |
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中川宮は親征諌止には関与していない(そもそも、中川宮は自身の西国鎮撫を避けるために親征を主張していた) |
G.『七年史』
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十五日(ママ)暁更、中川宮が御参内になった。御前にて、徐に、<御親征の議は極めての事件ですが、既に勅命を下されたのは、必ず陛下の御神算・御確信があってのことと信じております。尊融(=中川宮)、謹で叡慮の程を伺います>と奏されると、主上は怪しんで、何事ぞと御尋ねになった。宮は十三日の勅書(=攘夷親征の詔)をお見せし、<勅命を表白された書はこの通りで、(宮中は)行幸の用意で頗る忙しないことです。昨日(ママ)松平相模守(=因幡藩主)、松平備前守(=備前藩主)、上杉弾正大弼(=米沢藩主)が参内して、御親征の不可を諫争したのも、事の意外にして、容易ならざる陰謀が隠れていることをを察すればでしょう>と言われた。主上は勅書を御覧になり、いたく驚かれてこう言われた。<親征の機会今日に在りと、三條中納言、東久世少将等が度々奏請するが、朕は思う所があって、未だに許しておらぬ。ただし、神武天皇の山陵参拝は、朕の素志であるので許したが、急いではおらず、好期を待ち、其日を定めようと思っただけである>。宮は、<このように相反し、聖旨に背き奉るのは、「無状之極」と云うものです。速に関白に勅して、聖旨を矯める者を御処分を請い奉ります>と奏せられたが、「主上は暫く御思案あって、仮令関白に命ずるも関白は三條中納言等と同意なれば、其詮無からん。朕宜く熟慮すべしとの御事」なれば、宮は拝謝して御前を退かれた。高崎・秋月等はそうとも知らずに、公家門前にある会藩営所張幕の内に潜伏して、武田相模守が来るのを待っていたが、時刻が移るのに遂に来ず、しかも参内の例刻になって、公卿国事掛等が参内され始めた。程なく宮は御退出になった。高崎・秋月等は、事の齟齬を悟ったが、途中でお尋ねする方法もないので、柴秀治は黒谷に馳せて事情を告げ、高崎・秋月・広沢は、辻路を廻って中川宮邸に到り、どういう有様なのかと伺うと、宮は、「主上は深く偽勅を憎ませ給うも、事の重大なるを以て、御即決なくて、猶深く熟慮すべしとの叡旨なりと」、御示しになった。
ニ藩ともに落胆しないものはなかった。協議の結果、宮中で叡慮をお助けするのは中川宮以外にはない。かねてから主義を同じくされる近衛殿(=前関白近衛忠煕)御父子、二條右大臣殿(=二条斉敬)を説いて、宮と御協力を仰ぎ、叡慮を安んじ奉るに如かずと、高崎・井上(弥八郎)は近衛殿に、大野(英馬)・秋月は二條殿に参った。英馬等は、右大臣に謁して、「百万勧誘」するも、「深く其危険を御憂慮」の様子だった。英馬が声を励まして<御先祖鎌足公が入鹿を誅し、既に傾かんとする皇室を挽回されたのは、或は今日の如き御場合ではないでしょうか>というと、右大臣は忽然と膝を打って<善し、予、誓って力を尽すべし>という。近衛殿御父子も同意されたので、ニ藩士はこのことをを中川宮に告げた。宮は、密かに、近衛・ニ條両家の同意を(天皇に)言上されるにあたって、仮令如何ならん場合に臨むも、陛下断然御同様無からんには、必ず雲霧を掃攘して、叡慮を安じ奉らんと、御誓言になったとか。一切秘密は守られて、中川宮家には武田相模守、二條家には北小路冶部権大輔・高島右衛門の外知る者がなかった。
十六日夜、主上は、窃かに宮女を御使いとして、宸翰を中川宮に給わった。その密旨は一作夜(ママ)の奏事を熟思するに、会津中将に命じて処理させる外ないので、宜しく命令して処分せよ、というものであった。宮は内旨を肥後守容保にお伝えになり、臨時非常の後命を待つよう命じられた。 |
(出所:『七年史』一p423-425より作成。()内、下線、段落分けby管理人)
■西国鎮撫使
(3)有栖川熾仁親王を任命
【京】文久3年8月16日、朝廷は、中川宮に代って、有栖川宮熾仁親王に西国鎮撫を命じました。有栖川宮は、翌17日、これを承諾しました。
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中川宮が西国鎮撫御下向の事のお断りを、今日(=16日)、参内され、奏上された。よって、師宮にお命じになることになった。 |
(出所:長谷(信篤)家記『孝明天皇紀』巻百六十七p20より 意訳、()内by管理人)
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十七日、禁中より取次が参り、広幡殿(=議奏広幡忠礼)より御招きがあった。早速伊予守(=有栖川宮家諸大夫)が罷り出たところ、昨日師宮へ仰せ出された次第を御請になるか、内々に承りたいと申されたので、只今、殿下へ御成りになり、程なく参内され、御請される旨を御答えした。 |
(出所:(有栖川宮日記『孝明天皇紀』巻百六十七p20-21より 意訳、()内by管理人)
<ヒロ>
中川宮の参内は、西国鎮撫辞退を口実としながら、その実、急進派追放を直奏するためでしたが、ちゃっかりと西国鎮撫も辞退していたんですね。(もしや、西国鎮撫辞退を孝明天皇に説得するのに時間がかかって、政変計画を十分に議論できなかったんじゃ・・・・そんな気がすっごくします)。
参考:『孝明天皇紀』巻百六十七、『維新史料綱要』四p540(2013.1.19)
■因幡・備前・米沢・阿波四候の東下・攘夷督促
(4)攘夷別勅使任命の請願
【京】文久3年8月16日、因幡・備前・米沢・阿波四候の東下・破約攘夷督促につき、四候は、一同の総帥・綸旨所持の勅使を、公卿から任命するよう請願しましたが、朝廷は許しませんでした。
参考:『贈従一位池田慶徳候御伝記』ニp458-459(2013.1.19)
■大和五條の乱
(5)河内到着
【坂】文久3年8月16日、元侍従・中山忠光ら天誅組は河内狭山に到着しました。吉村寅太郎・尾崎健蔵は狭山藩主北條氏恭を訪れ、義兵を募って鳳輦を迎えると伝えて、出兵を求めました。また、使者を下館藩陣屋に送って、武器を徴発させました。
関連:■「開国開城」「大和の乱・生野の乱」■テーマ別文久3年:「天誅組」
参考:『修補殉難録稿』前、『維新史料綱要』四p538(2004.10.7) |