9月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 開国開城 HP内検索 HPトップへ
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☆真木和泉のお天気日記 陰 ■禁門の政変(文久政変)へ 後3日 (1)【京】文久3年8月15日、京都守護職松平容保は、江戸の閣老に書簡を送り、事態が極めて切迫し、親征が布告されたことを報じるとともに、「非常の尽力」をするので必ず後の一報を待つよう求めました。
<ヒロ> このとき、既に、会津藩は在京薩摩藩・中川宮と連合しての政変計画を進めていました(こちら)。「非常の尽力」「後の一報」は政変を指すわけですが、書簡は極めて簡潔で、この間の事情や、具体的計画については記されていません。ゆっくり書簡を認めている時間もなかったでしょうが、わざと書かなかったのだという気がします。書簡が中途で急進派の手に落ちることを警戒したともいえるでしょうし、万一政変が失敗したとき、幕府を巻き込まないための配慮だったのかもしれません・・・。また、必ず後の一報を待て、という裏には、無暗に行動を起こさないでくれという願いもこめられているような気がします。(当時、後見職一橋慶喜の上京が近いと信じられていましたので、数か月前の小笠原長行のように、海路大兵を率いてこられては叶わないといったところ?)) (2)【京】同日頃、交替のため国許に帰る途上にあった会津藩兵が召喚されて、続々と京都に入ってきました。 <ヒロ> 旧会津藩士による『七年史』や『京都守護職始末』によれば、大和屋焼き討ち事件があったため、怪しむ人はいなかったと説明されています。管理人は、この頃、春嶽上京の風聞が盛んで、急進派はそちらに神経をとがらせおり、会津藩の藩兵呼び戻しも、越前藩に対応するためだと受け止められて、さして警戒されなかったんじゃないかと思ったりします。会津藩には越前藩が上京したときには阻止するよう内命が下っていたといいますし(政変後の中川宮談こちら)。 参考:『七年史』一p426-427(2001.9.27、2004.10.7) ■攘夷親征/大和行幸 (3)【京】文久3年8月15日、朝廷は、長州・加賀・肥後・薩摩・久留米・土佐藩に対し、同月27日を期限として行幸&親征軍議の御用金十万両を調達するよう命じました。 <ヒロ> 前日から急進派浪士・諸藩士が学習院に出仕しているので、朝命ではと思います。在京薩摩藩はこの朝命を非常に不快に思ったようです。 「京都政変ニ付奈良原幸五郎覚書」には、会薩連携による政変計画にいたった形勢として、攘夷親征の詔公布、急進派による偽勅乱発、天誅・放火等に加えて、「其上此度行幸に付き、御家・加州・細川・久留米・土佐・長州へ御高割にて、十万金の献金、来る二十七日限り上納仕るべき旨、御別紙の通り仰せ付けられ」たことを挙げています。 参考:『維新史料綱要』四p538、『玉里島津家史料』ニ(2004.10.7) 関連:■「開国開城「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別文久3年:「大和行幸と禁門の政変」」■守護職日誌文久3 ■薩摩藩日誌文久3 (4)【京】文久3年8月15日、因幡藩主池田慶徳、備前藩主池田茂政、米沢藩主上杉斉憲、阿波藩世子蜂須賀茂韶は、微力な身なので、朝議を誤り、衆心に疑惑を生じかねないとして、「朝議参謀」を辞退しました。なお、軍務については、武臣の職掌なので、如何なる御奉公も勤めるとしています。 <ヒロ> 朝議を誤る等はもちろん建前だと思います。彼らは穏健な破約攘夷派で、本来、天皇の考えと一番近いのですが、急進派を抑えることができず・・・というより、親征の件で、天皇・中川宮・鷹司関白らにふりまわされて、とことん疲れ果ててしまったんじゃないでしょうか・・・。(なお、慶徳らは、前14日には、13日の親征をめぐる自分たちの議論が僭越だったとして進退伺いを出していましたが、即日、鷹司関白からそれには及ばないと却下されていました) 参考:『鳥取池田家文書』一p576-577(2013.1.17) ■大和五條の乱 (5)【坂】文久3年8月15日、天誅組は海路大坂を出発して堺に到着し、河内路へ向かいました。その途上、中山忠光は軍令を同志に示しました。 関連:■「開国開城」「大和の乱・生野の乱」■テーマ別文久3年:「天誅組」 参考:『修補殉難録稿』前、『維新史料綱要』四p538(2004.10.7) |
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