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文久3年12月1日(1864.1.9)
【京】嘆願(15)伏見の伊原、再び入京嘆願/
【京】慶喜・春嶽・宗城・久光、井原の趣意を聴取させるため、
伏見に朝廷執次と所司代役人派遣することを決定

■長州家老井原主計の入京・嘆願(15)
【京】文久3年12月1日、井原の趣意を聴取するため、朝廷執次と所司代役人を伏見に派遣することが決まりました。

この日、一橋慶喜(将軍後見職)の宿舎に、松平春嶽(前政事総裁職・前越前藩主)、伊達宗城(前宇和島藩主)、黒田慶賛(筑前藩世子)、島津久光(薩摩藩国父)が集まり、伏見の井原主計の願意を聴取するために派遣する者について評議しました。席には、会津藩公用方秋月悌次郎が呼ばれていました。

前々日(11月28日)の会合では、秋月の強硬な主張により、井原の入京不可が決まりましたが、秋月は伏見に伝奏を派遣するという代替案にも反対していました(こちら)。それでは会津藩が応接してはとの春嶽の提案には、会津藩と長州藩は互いを仇敵視しており、穏やかな応接は無理であるとを断り、政変に関与しておらず、かつ上京途中に長州で嘆願を受け付けた筑前藩世子黒田慶賛に依頼してはどうかとの私見を述べていました。(黒田がこの日の会合に参加しているのは秋月の言によると想像されますこちら

席上、秋月は意見をきかれると次のように申し立てたそうです。
このたび長州より井原主計の他、佐久間左兵衛も同道したそうですが、承るところ、この両人は表向きは悔悟謝罪のためと申しておりますが、内実は、八月十八日以前の叡慮は真正で同日以後の叡慮は真正ではない、即ち尹宮(=中川宮)及び薩会の意より出たもので全て虚妄だとし、十八日以前に復されるように幾重にも朝廷へ申し上げる趣意のようです。この趣意には因州候(=因幡鳥取藩主池田慶徳。慶喜の兄)も同意され、過日二条殿(=二条斉敬右大臣)へ申し出られましたが、二条殿は御承諾されなかったそうです。また、長藩在京留守居某(=乃美織江)が国許へ召還されたそうですが、この留守居は、井原等が悔悟謝罪と申すのは表面のことで内実はどうなのか計り難いと申した事があるそうですから、召還されたのは因循だと認められてのことでしょう。このような次第ですので、過日も申し上げたように、いよいよもって井原等を京都へ入れられるべきではありません。また、伝奏衆を伏見に下されることもなりません。書面をもって彼の趣意を言上させるほかないでしょう。

秋月退出後、春嶽が、朝廷執次に所司代の家臣を添えて伏見に派遣してはどうかと提案したところ、一同に異論がなかったので、この案で決まりました。なお、昨日、中川宮が、久光に対し、この一件の結論がでれば予め知りたいと言っていたため、明日、久光が参殿・言上することも決まりました。

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参考:『続再夢紀事』ニp264-265。(意訳は管理人。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)(2005.1.9)

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