1月の「今日」  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月29日(1864.1.8)
【京】久光、近衛忠熙前関白に密勅21か条の奉答書を提出。
【京】長州家老入京問題:春嶽、会津藩に同藩士が長州家老井原主計に
応接することを提案。会津藩、これを断る。

■薩摩藩への密勅21条
【京】文久3年11月29日、島津久光は去る15日に近衛邸で渡された密勅21条(こちら)への奉答書を近衛前関白に提出しました。

密勅各条に関連する奉答内容は以下に要約する通り。
11月15日の密勅(要約) 奉答書の関連部分(要約)


前文
戊午(安政5年)の公卿落飾以来、とかく幕府に「疑念偏執」の処置が多いのは痛心であった。その後、時勢が変って「過激之儀相起」り、「忠誠乍浪士之輩」に惑わされ、前後を弁えず、「予(の)存意(を)矯候事」が盛んとなった。「関白モ失権」し、「朕座前と退後」とでは全く違い、二枚舌にも似て、重職に不相応であった。両役(=議奏・伝奏)もた「只々時宜ヲ見之勤方」であり、「深心痛」する所であった。、「従来股肱之連枝」である尹宮(=中川宮)に内談し、「会藩(ヲ)頼」み、「八月十八日之一件」となったのは「深喜悦」する所である。「先月(ママ)十八日前之憂患」はほぼ払ったものの、今後の事がまた「一大事」であり、「其方」に「深(く)所頼」である。宜しく聞き取り、他聞は秘すよう願いたい。 (略)
2 「攘夷之一件」はいまさら申すまでもないが、「武備不充実」では「無理之戦争」に成り、「真実皇国之為」とも思われない今後は、「真実之策略」をもって「皇国永代」穢れなく、「安慮之攘夷」が「迅速」に行われるよう、方策の建白を望む 「攘夷之一件」は、将軍上京後、「一橋初諸大名会合」によって、「武備充実」が実現するようにしたい。自分は「急速之攘夷」に反対である。今、戦争となれば全ての人民が「塗炭之苦ヲ受」け、「神州醜夷之戎馬」に「穢」されるだけだが、「武備充実」すれば外国も「不戦して畏服」するだろう。また、鎖港については、当方は「武備乏」く、「開鎖之権」は外国に掌握されているので、当方から「鎖港相達」ても実現困難である。主導権を握るためには「武備充実之外ニ策略」はない
3 (大政を)「関東へ委任」するか「王政復古」かの「両説」があり、「暴論之輩」は復古を主張して種々「計略」をめぐらすが、朕はこれを「不好」、当初から「不承知」だと言っており、(大政は)「大樹(=将軍)へ委任之所存」である「何処迄も公武手を引、和熟之治国」に致したい。この事は「深心得」よ。  「大政大樹エ御委任」は「至当」である。武将が「天下ノ権ヲ執」って以降、万民皆その勢いに従っており、「方今俄ニ王政ニ御復古は迚も六カ敷御義」である。特に、「外夷軽蔑之時世」に「内政」が「混乱」してはならない。しかし、大政委任しても、「武備充実之指揮」が不十分であったり、「朝廷尊崇之道」が欠如した場合は、「顕然と罪ヲ」正すべきである。
4 前文の通り「八月十八日前之勅諚」は「真偽不分明」であるので、不審があれば一々尋ねよ。「十八日之一件」は実に「会藩(の)忠勤(を)深(く)感悦」する所である (特になし)
5 「堂上(が)暴論過激之説」になったのも全く「諸有志・浮浪」の入説による。今後は、「堂上家並地下官人」のもとに「兵馬之権之輩」をに猥りに入り込ませぬようにしたい。 「堂上暴論過激之説ニ成候」以下の「趣意」は「至当」である。さらに、今後、「御取締向厳重行届」くよう、堂上・武臣にも談判する。
6 「公武和熟」を望むことは前文の通りである。関東も戊午以来の処置を改め、今後は朕が深く幕府を頼み、幕府は深く「勤王尊奉之道」を立てれば、万民自ら幕府を尊ぶだろう。 (特になし)
7 大樹が上洛すれば種々依頼することもあろう。そのときはその方も「出格之助勢」をせよ。 (特になし)
8 八月十八日以後は、全て「朕之座前ニ之評決」となり、「深(く)安心」する所である。自然に「中途之計策」もないものと思うが、とかく「次の評議」になりやすく、「心痛」している。朕の不在の場での評議になれば、十八日以前に引き戻される恐れもある。尹宮にも相談しているが、その方の意見も建白せよ。 八月十八日以後の「御評議」の件については、尹宮・前関白等にも決して異議はないと思われるが、時々談判しておくので、安心してほしい。
9 十八日の改革は実に朕の心より発した。真の叡慮ではなく、尹宮、会津又は右府(=右大臣)以下の所為のように風説すると聞く。これによって疑念を生じ、無益の怪我人などがあては深く心痛するところである。以来、どんな風説があっても決して信用せぬように。万一疑わしき儀があれば、密書にて直接尹宮・前関白(=近衛忠熙)に尋ねよ。虚説流伝の禁圧方法を勘考せよ。 十八日に関する虚説は、「長州且浮浪暴論輩」による「人心ヲ疑惑セシムル造意」である。自分は、風説を疑う「心底」が寸分もないので安心してほしい。

(虚説流伝の禁圧方法については特になし)
10 堂上のうち、「十八日之一件」を「信用」せず、三条以下を惜しむ色があり、深く将来が案ぜられる。その方の策で説得せよ。 (特になし)
11 先年来、「虚談(=偽勅)」が「布告」され、朕は「深(く)迷惑」している。将来如何様の儀があるとも、「真偽相正」し、「風説信用無之様」、列藩にも聞かせ置きたい 先年来の虚談布告の件に関する列藩への布告は「至当」である。これについては、将軍上洛・諸大名会合の上、一同に参内を命じ、御前にて直接達せば、拝承せぬ者はない筈である。
12 正親町少将(=公菫)は今差し控えを命じているが、中山忠光(公菫弟)と同じく何事をしだすとも測り難いので、辞表を出させ、辞官位・除席の上、実父中山家にて堅固に篭居然るべきである。この事を熟考し、父大納言(=中山忠能)に説得せよ。 正親町少々の件は、熟考の上、中川宮・前関白らとも相談したい。諸候へも評議を命じてほしい。
13 関白(=鷹司輔熙)は辞職して然るべきだと思うが、意見を建白せよ。 関白辞表は「至当」である。退職せねば、「列藩之疑惑」を生じるだろう。
14 「実美以下七人」は実に「暴激私情のみ之人体」で、「従来苦心」してきた。脱走後も「種々之姦策ヲ巡」らし、実に「害(の)基」であり、「急度厳重之処置」をすべきである。よって、帰京させた上で「厳重ニ後禍ニ」成らぬような手段を講じるよう依頼する 実美以下七人の件は、「朝議之御定策」もあるだろうが、「実以不忠無限」であるので、なお熟考し、諸藩で談合したい。
15 (実美らの)「元同輩ニ而不脱走之輩」は差控え・他人面会を禁じている。脱走せぬだけ罪は軽いが、どのような「密計」を企てるやも測り難い。彼らはその方の智略で改心するよう説得できぬか。それが成しがたければ決して宥免せず、厳重に篭居させよ。 「元同輩ニ而不脱走之輩」に関する「趣意」は「至当」である。中には「随分改心」した者もあると思われるので、なお熟考し、中川宮等と相談して「説得之手段」を講じたい。
16 姉小路(公知)一件(こちら)で其藩(=薩摩藩)に嫌疑が及んだのは「気之毒」である。これは決して朕の真意ではない。 姉小路の一件云々については恐縮の至りである。疑いを受け、「只々苦心」していたところ、十八日後に宥免の沙汰があったこと、また上京の勅命が一時差し止めになった次第(こちら)も、恐縮の至りである。
17 列藩に布告した浮浪取扱の事(こちら)は、後禍をなさぬよう尚勘考せよ。 列藩に布告した浮浪取扱の事は尤もである。なお勘考し、取り締まりが行き届くよう談合する。
18 堂上の事は追々聞きたい事もあるので、また内密に諮問しよう。 (特になし)
19 大樹が上京すれば依頼すべき儀もあるだろう。(幕府側と)右の箇条を内々に申し合わせて置いてほしい。 (特になし)
20 その方の「勤王誠忠」にも「感悦」させられる。今後、朕が申し出さん所の周旋を深く頼み置く(「猶朕乍愚昧申出処周旋深頼置候」)。 (特になし)
21 これまで、「兎角疑念偏執を申触」らし、「虚談カ真実ニ相成」り、無益に疑いを掛け、堂上のうち予の腹心と思う人は兎角退去となり、その後は内儀までへも疑いを掛けるに至る。誠に心痛しており、今後、このような事が決してないよう、(朝廷内で)万一のことがあれば、「其方(の)取抑方(=鎮撫)」を「深頼入」所である 「兎角疑念偏執」云々については「深心配」している。腹心をよくよく観察し、小人と賢臣を取り違えることのないよう、熟考されたい。
右の条々、早々に返答せよ。


「会藩モ守護職之事周旋モ候へハ」、この書状を遣わすべきか、内密に相談したい

「外ニ従来朕一心ニ深苦心之事」がある。これは篤と熟考の上、また伝えるかもしれないが、未定である。「万一申出シ依頼」があるときは、「程克」聞き取り、「周旋成功頼置」たい。依頼内容が「不顕」では「答モ六カ敷」だろうが、(依頼を請けるかどうか)「先」ず「可否(を)尋置」く。


肥後守に同様の宸翰を下す件については、「先御猶予被遊度奉存候」。自分へも度々密勅の拝戴を命じられると、中川宮・前関白らに対して恐れ入るので、以後は、両人にだけは相談の上、拝戴を命じてほしい。

外に従来御苦心の事があり、依頼があれば周旋するよう、予め命じられた件については、「御趣意承知仕候ハヾ、其節何分可奉申上」たい。
(出所:密勅は『続再夢紀事』ニp164-172、奉答書は『玉里島津家史料』ニp598-602。 番号振り、要約&()内、赤字は管理人。素人なので著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)(2011.1.6)
■長州家老井原主計の入京・嘆願(14)
【京】文久3年11月29日、松平春嶽は京都守護職・会津藩主松平容保に対し、入京嘆願に伏見に滞在している長州家老井原主計の応接にあたらせることを提案しました。応対した秋月悌次郎はこれを断りました。

この日、春嶽は藩士千本弥三郎を施薬院の容保のもとに遣わしました。前日、後見職一橋慶喜の宿舎(東本願寺)での会合で、井原の嘆願の趣を聞き取るために伝奏に武家を沿えて伏見に出張させてはということになったとき、会津藩公用方秋月悌次郎が伝奏を出すことに反対したため(こちら)、会津藩が専ら応接を負担してはどうかと考えたのです。

千本が秋月と面会して相談したところ、秋月は、
<この応接は守護職が取り計らうべきではあるが、「弊藩と長藩とは殆ど仇敵にひとしく、双方の藩士途中にて行逢ふにも互に指(刺)違へんとする程の情勢」なので、到底平穏に応接を遂げ得ないだろう。この件は固くお断り申し上げたい。もっとも、干戈を動かす場合になれば、長州がもし二国の兵を挙げて来ても、会津はこれに当たるを辞さぬ覚悟である。この件は尹宮(=中川宮)へも三郎殿(=島津久光)にもすでに申し上げ、御両所とももっともに思うとのことである。ここは、十八日の事(=禁門の政変)に関係なき藩が取り計らって然るべきではないか。筑前侯(福岡藩世子黒田慶賛)は過日(上京途上に)長州を通過された時に、(長州の)哀願を受けそうなので、迷惑ながら同侯に命じられてはいかがだろう>
と答えたそうです。

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参考:『続再夢紀事』ニp254-255。(意訳は管理人。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)(2005.1.8)

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