1月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 j事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月28日(1864年1月7日)
【京】一橋慶喜・松平春嶽・伊達宗城、長州家老井原主計の入京を議す。
会津藩秋月悌次郎、入京を強硬に反対

■長州処分&家老井原主計の入京・嘆願(13)
【京】文久3年11月28日、会津藩公用方秋月悌次郎の主張により、将軍後見職一橋慶喜・前政事総裁職(前越前藩主)松平春嶽・前宇和島藩主伊達宗城は、嘆願のため伏見に入った長州藩家老井原主計の入京不可を決めました。

井原は、前日(11月27日)に伏見に入っていました(こちら)。この日、慶喜の宿舎に春嶽・宗城が集まっていたところ、秋月が謁見を請い、三名列席で秋月に会いました。やりとりの大意は以下の通り。

秋月 過般来、長州は藩論三派に分かれており、その一は過激の罪を謝すべしと言い、その二は是非の分別を願うべしと言い、その三は果断に事を発すべしと言い、それぞれが主意を主張したが、過激の罪を謝すことに一決したとかで、老臣井原主計が入京を願っております。しかし、長藩が勅勘となったのは、もともと無謀の攘夷を主張し、また強いて御親征を促し奉るなど、粗暴過激を尽くした故です。その後、謝罪に一決したとは申すものの、未だその真偽が明らかでない今日、俄かに入京を許されては、また八月十八日以前の状況に戻るやもわかりません。入京は許可されてはいけません。武家のうち誰なりと大坂に遣わされ、井原の申し出る旨を聞き取ればよいでしょう。
慶喜・春嶽・宗城 謝罪の為、入京を請うことならば許しても差し支えないだろう。尚これを許すべからずとするは、固陋である。
秋月 (前説を繰り返し、入京許可の非を論じる)
慶喜 では、伝奏に武家を差し添えて伏見まで遣わせばよいだろう。
秋月 堂上方は、従来、長人の虚喝に恐怖して心を動かされる事が少なくありません。今度も伝奏を出されるのは最もよろしくありません。

<ヒロ>
八月の政変は、薩摩藩士の高崎左太郎が秋月らを訪ね、長州藩や激派公卿の主導で決まった攘夷親征を止めさせるための連携をもちかけたことが始まりであり、秋月は広沢安任(富次郎)らとともに政変の計画・実行に奔走しました。秋月の立場にたてば、長州藩を警戒する気持ちはさもありなんなのですが、結局、秋月(会津藩)の強硬な反対で、長州藩は平和裏に入京する道を絶たれることになります。翌元治元年の禁門の変が会津と長州の私闘といわれたのもわかる気もします。

それにしても、慶喜らに「固陋」といわれても尚持論を崩さず、入京不可を認めさせてしまった秋月は、「剛情公」慶喜にまさるとも劣りませんね。

●おさらい:長州家老入京問題
文久3年8月18日の政変の報が長州藩に届いたのは8月23日でした。これより先、8月20日に、大和行幸の詔と長州藩主父子上京の沙汰を伝達するために家老根来上総が帰国し、22日に世子定広の上京が決まったばかりでした(こちら)。敬親は根来上京して嘆願書を朝廷に提出するよう命じ、根来は29日に山口を出立しました(こちら)。根来は9月13日に大坂に到着しましたが(こちら)、朝廷は彼の入京・嘆願を許さず、京都留守居役乃美織江に嘆願の趣旨を聴取し、さらに政変当日の毛利元純らの挙動を取り調べるよう命じました(こちら)。在坂藩士の中には押して上京すべきとの意見もありましたが、結局、朝命に従うことになり、根来は嘆願書を乃美に託しました(こちら)。乃美は、同月23日、勧修寺家を通して嘆願書を提出しました。

その一方で、長州藩は、9月16日に世子定広の上京を決定し(こちら)、10月1日には「朝政回復」のために「君側の姦」を除くことを藩士に達し(こちら)、同月10日には、藩士に世子随従を予め命じ、決意を固めさせていました(こちら)。(とはいえ、藩庁の大勢は即時の率兵上京は視野に入れておらず、真木和泉が諸卿に率兵上京三策を献ずる(こちら)など六卿の周辺では進発論が高まるのをみて、彼らが暴発せぬように六卿を三田尻から山口に移すなど、慰撫に努めていました(こちら)

このような状況下、根来は所期の目的である入京して直接朝廷に訴えることを果たせぬままに10月23日に山口に帰り着きました。長州藩は、世子上京に先立って藩主父子の「赤誠」を朝廷に達するために、今度は家老井原主計に「奉勅始末」と毛利元純(支藩清末藩主)等の挙動取調書とを授けて上京させることを決めました。11月3日、井原は山口を出立しました(こちら)。京都留守居の乃美は、15日、西上してくる井原の入京許可を朝廷に願い出ていましたが、何の沙汰もなかったため、19日、再願しました。これに対し、勧修寺家からは井原持参の毛利元純取調書は京都留守居の乃美が下坂して持ち帰るようにとの達しがありました。つまり、井原の入京は不許可ということでした。11月27日、伏見に入った井原は、勧修寺経理を通じ、供方を減らしてでもよいので入京を許可するよう朝廷に嘆願しました。

参考:『続再夢紀事』ニp253-254。(意訳は管理人。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)(2005.1.7)
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