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元治年12月26日(1865.1.23)
【京】関白二条斉敬、若年寄立花種恭による一橋慶喜の東帰許可の内願を退ける

☆京都のお天気:晴雨相交(嵯峨実愛日記)
>一橋慶喜の江戸召喚問題
■若年寄立花種恭の上京
【京】元治元年12月26日(1.23)、若年寄立花種恭が、関白二条斉敬に謁し、常陸・下野の件(=天狗争乱)による人心動揺を理由に、禁裏守衛総督一橋慶喜に暫時東下の朝允を内々に願い出ました。しかし、斉敬はこれを却下しました。

立花は翌27日東帰することになりました。


実は、幕府は、さらに大目付神保長興(伯耆守)を召喚の使者として送っており、神保は12月28日に上京しました。神保は途中で立花と行き合って状況を知っており、用を果たさずに帰府したそうです。

(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための率兵西上を命じました(こちら)。崇広は23日に兵を率いて陸路西上した。真の目的は上京・慶喜の江戸連れ戻しだったとされます(こちら)。しかし、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していました。12月13日、草津に到着した崇広は、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせました。崇広の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂されました(こちら)。崇広は12月15日に入京しましたが、18日、朝廷は、崇広への応答は慶喜帰還まで見合わせることを決定し、守護職松平容保・所司代松平定敬は崇広に面談して、将軍進発促進のための東帰を説得しました(こちら)。二条関白・中川宮もこれに加わり、説得された12月23日、崇広は、容保・定敬に対し、東帰して将軍進発に尽力することを誓い(こちら)、24日に退京していました。

一方、種恭は、12月7日に改めて上京を命じられ 10日に江戸を出立、20日に海路着坂し、22日に着京、23日に入京を届け出ていました。

<ヒロ>
陸路で先発した崇広と連携して慶喜の連れ戻し(&慶喜に代って崇広の在京?)をはかる手筈だったと思われますが、その崇広は何の工作もしないまま、ほぼ入れ違い状態で退京してしまいました。とりあえず入京してしまったので、幕命通り、朝廷に内願だけはするという感じだったのではないでしょうか

参考:「嵯峨実愛日記」(綱要DB 12月26日条 No3)(2018/9/24)
関連:テーマ別元治1■一会(桑)、対立から協調・在府幕府との対立へ

【京】元治元年12月26日(1.23)、一橋慶喜が帰京しました(25日説あり)

関連:■「幕末水戸藩」主要事件元治1年■テーマ別元治1水戸藩/天狗諸生争乱 (2018/9/24)

>薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑
【京】元治元年12月26日、中川宮は正親町三条実愛に、諸藩が内大臣近衛忠房を疑っていると話しました

また、一橋慶喜、幕府、諸藩はみな気づいているとも話しました


<ヒロ>
正親町三条実愛は日記の12月2日条には「前殿下(=前関白)申承」として「薩討幕内公(=内大臣近衛忠房)同意」、「肥後・土藩等薩疑」と記しています(こちら)。その説がさらに広がっていたと思われます。

参考:「嵯峨実愛日記」(綱要DB 12月2日条 No83)(2018/9/24)
関連:テーマ別元治1■薩摩藩の朝幕離間策・嫌疑

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