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元治年12月24日(1865.1.21)
【京】老中松前崇広、東帰のため、退京
【敦賀】加賀藩隊長永原甚七郎、武田耕雲斎ら降伏した天狗党を新保より敦賀に監護し、寺院に収容する

☆京都のお天気:天晴(嵯峨実愛日記)
>一橋慶喜の江戸召喚問題
■老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京
【京】元治元年12月24日(1.21)、老中松前崇広が暇乞いに参内し、東帰のため、退京しました。


この日、松前老中は、武家伝奏に、征長総督に長州寛大処置の御沙汰あったと伝承するが、寛大の軽重は種々あるので委細を推紙で伺いたいとの書き取りを差し出したそうです。ところが、伝奏は「頓と不心得儀」だったので、二条関白にも確認した上で、総督へは二度の沙汰以外にはないと返答したそうです

<ヒロ>
松前が参内時に長州寛大についてわざわざ確かめたのは、幕府が長州藩主父子の江戸召喚を考えていたためではないかと思います。ちなみに、慶喜は12月25日(あるいは26日)に帰京しますので、まさに入れ違いとなりました。

(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための西上を命じた(こちら)。松前老中は23日に兵を率いて陸路西上した(立花は12月10日に海路西上)。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。ところが、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12日、大津に宿陣中の慶喜は、二条関白に書を送り、西上してくる松前老中に上京の含みがあることを知らせ、会津・桑名と相談することを求めた。13日、松前老中は草津に到着し、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。松前老中の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂され、薩摩藩小松帯刀は幕府と慶喜の対立を面白いと評した(こちら)。松前老中は歩兵部隊を率いて15日に入京した(こちら)。17日、慶喜は二条関白に使者と書を送り、上京中の老中松前崇広への警戒を示した(こちら)。18日、朝廷は松前老中への応答を慶喜帰還まで見合わせることを決定した。また、守護職松平容保・所司代松平定敬は松前と面会して、将軍上洛実現のための東帰を説得し、その後、二条関白・中川宮もこれに加わった(こちら)。22日、慶喜は、松前老中に書を送り、自身の帰京(26日)までの滞京を求めた(こちら)が、23日、松前老中は、慶喜に対して東帰の必要な「御用」があるため滞京できないとの陳弁書を、容保・定敬に対して東帰して将軍進発に尽力することを誓う書状を送った(こちら)

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>天狗西上
【敦賀)】元治元年12月24日(1.21)、加賀藩隊長永原甚七郎は、武田耕雲斎ら降伏した823名を新保より敦賀に監護し、寺院に収容しました。(綱要)

12月21日、追討軍の主将である一橋慶喜は、武田耕雲斎等の降伏を容れ、加賀金沢藩に預けることにしていました(こちら)。

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