「今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

◆12/22へ ◆12/24へ

元治年12月23日(1865年1月20日)
【京】老中松前崇広、慶喜に東帰の必要な「御用」のため滞京不可の陳弁書を、容保・定敬に極秘の決意書を送る

☆京都のお天気:霽但時々陰 (嵯峨実愛日記)
>一橋慶喜の江戸召喚問題
■老中松前崇広・若年寄立花種恭の率兵上京
【京】元治元年12月23日(1.20)、老中松前崇広は、禁裏守衛総督一橋慶喜の書に復し、急遽東帰の必要な御用があるため、慶喜の帰京までの滞京は困難であるとの陳弁書を送りました。


<ヒロ>
松前老中の滞京を求める慶喜書簡はこちら(12/22)。松前の御用とは、二条関白・中川宮・山階宮から命じられた将軍進発への尽力になります。(↓↓参照)

+将軍進発問題
【京】同日、老中松前崇広は、守護職松平容保・所司代松平定敬に対し、慶喜からの滞京を求める書簡・謝絶した返書(写し)を心得までに送るとともに、急遽東帰して将軍進発に尽力する決心を述べた極秘の書簡を送りました。

(別紙(極秘要書)の概略)
帰府の上は、(長州処分のための)将軍進発に尽力する決心だが、(幕府から)どのような御汰を蒙るやも計り難い。この段を聞けば、同列(=他の老中)に(朝廷から)厳重な沙汰が出るよう必ず周旋願いたい。この条(進発に尽力する件)は固く約束したが、それでも(進発が進まない場合、幕府が)「御因循」だからと急ぎ勅使御下向となれば、実に(容保・定敬が)殿下(=二条関白)に言われた通り「それまでの御事」であるので、再三再四、猶予になるよう尽力願いたい。または二人のうち急いで出府をしてでも勅使下向を止めてほしい。
立花出雲守(=若年寄立花種恭)の帰府は自分の着府と同時期か1、2日後になるようしてほしい。
(過日の老中召命(12/9)によって)同列(=老中)が上京した際は、(朝廷からは、将軍進発が遅延していることを)随分お叱りあり、(老中を)悔悟させるほどの御沙汰でなければよろしくないが、(朝廷と幕府の関係が)「それきり」のようになる御沙汰はないようにくれぐれも頼みたい。
殿下、両宮(=中川宮、山階宮)には色々厚い御沙汰を蒙った。関東(=幕府)のためになることは即ち国家のためであり、(幕府が)この機会を失っては瓦解し、(二条関白・中川宮らも)御尽力・取り成しようがない旨の御心底を隠すことなく仰せ聞かされ、まことにありがたく、安心し、気力を増し、速やかに尽力することにつき、篤くお礼をお頼みしたい。

<ヒロ>
慶喜不在の間、二条関白が一会とよく連携しています。慶喜が12月12日に二条関白にあてた書状(こちら)で、何事も一会と相談するよう念を押した効果があったのかもですね?

参考:『徳川慶喜公伝 史料篇』ニp232-233、『京都守護職始末』2p137-141(2018/9/24)

【京】同日、若年寄立花種恭が朝廷に入京を届け出ました。(綱要)

<ヒロ>
立花は、元々、11月19日、松前老中と同じ日に西上を命じられていました(こちら)が、12月7日には改めて上京を命じられ、実際に江戸を出立したのは12月10日でした。海路、着坂したのは20日。陸路で先発した松前と連携して慶喜の連れ戻しをする予定だったと思うのですが、12月15日に入京した松前は江戸にいたころと考えを変え、東帰を決めていました。先発していた老中が、慶喜呼び戻しについて何の工作もしないまま、自分とはほぼ入れ違い状態で急遽退京することになってしまい、なんだか梯子を外されちゃった感のある立花です。
(2018/9/24)

*** ***
(おさらい)
幕府は、11月19日、老中松前崇広・若年寄立花種恭に対し、長州表の御用のための西上を命じた(こちら)。松前老中は23日に兵を率いて陸路西上した(立花は12月10日に海路西上)。真の目的は上京・慶喜の江戸召喚だったとされる(こちら)。ところが、慶喜は、天狗党追討のため、12月3日に退京していた。12日、大津に宿陣中の慶喜は、二条関白に書を送り、西上してくる松前老中に上京の含みがあることを知らせ、会津・桑名と相談することを求めた。13日、松前老中は草津に到着し、所司代に対し、慶喜留守中の京都警衛強化を理由とした急遽上京を知らせた。松前老中の上京は、天狗党との内通の疑いを慶喜に糺すためだと噂され、薩摩藩小松帯刀は幕府と慶喜の対立を面白いと評した(こちら)。松前老中は歩兵部隊を率いて15日に入京した(こちら)。17日、慶喜は二条関白に使者と書を送り、上京中の老中松前崇広への警戒を示した(こちら)。18日、朝廷は松前老中への応答を慶喜帰還まで見合わせることを決定し、守護職松平容保・所司代松平定敬は松前と面会して、将軍上洛実現のための東帰を説得した(こちら)。22日、若年寄立花種恭も着京した。同じ日、慶喜は、松前老中に書を送り、自身の帰京(26日)までの滞京を求めた(こちら)

関連■テーマ別元治1「一会(桑)VS在府幕府首脳」「将軍進発問題

その他の主な動き
・【梅津】一橋慶喜、京都へ帰陣
・【岩国】征長総督徳川慶勝家士若井鍬吉、萩藩支族吉川経幹に面し、宗藩諸隊の鎮撫に斡旋せんことを勧告す

◆12/22へ ◆12/24へ

今日」トップ 元治1年12月 テーマ別日誌 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ