1月の「今日」 幕末日誌文久2 テーマ別日誌 開国-開城 HP内検索 HPトップ
■攘夷勅使の東下 【江】文久2年12月7日、別勅使三条実美・副使姉小路公知は江戸を出立し、帰京の途につきました。勅使に随従していた土佐藩主山内豊範も江戸を出立しました。(8月に大赦の勅諚を奉じて東下していた長州藩世子毛利定広(こちら)は翌々日の9日に出立しました) <ヒロ> 勅使は、12月5日に将軍から攘夷の奉承・親兵設置の(婉曲な)拒絶という回答を得ていました(こちら)。親兵設置要求が貫徹せず、満足のいく回答ではなかったはずです。にもかかわらず、急いで出立した理由ですが、
関連:■テーマ別:「攘夷勅使の東下」 「親兵設置問題」「長州藩世子奉勅東下」 ■開国開城:「第2の勅使三条実美東下と攘夷奉勅&親兵問題」 ■容保(守護職)上京 【江】文久2年12月7日、将軍家茂は京都守護職松平容保に上京の暇を与えました。 ○容保の赴任が遅れた経緯 容保は、紆余曲折の結果、閏8月1日に京都守護職に任命されました(こちら)。その後、なぜ、12月まで4ヶ月以上も上京都をしなかったのでしょうか。 (1)三港外閉鎖等の建白書と一度目の暇 実は容保に上京の暇が与えられるのは、これがニ度目でした。当初の上京予定が延びたためなのですが、一度目の暇自体も遅く、10月に入ってからでした。幕府は上洛を催促したのですが、容保は、下準備のため京都に派遣した藩士の報告を受けて9月17日に提出した建白(三港外閉鎖などこちら)に幕府が同意するまでは上京できないと頑張っていたのです。しかし、9月30日に、首席老中板倉勝静から閉鎖の議は慶喜公が上京して担当するので、守護職はそのような事まで責任を負う必要はないと言われて納得し(こちら)、10月1日にようやく暇が言い渡されました(こちら)。 (2)滞府・周旋の沙汰による上京延期 会津藩は15日に出発(11月4日に京都に到着)する計画を立てますが、東下してくる勅使のための滞府周旋の沙汰が出されたため(こちら)、出立を延期していました。勅使は10月28日に到着したものの、将軍家茂が麻疹に罹患していたため、勅諚の伝宣は大幅に延期されました。当然、容保も上京することはできません。 (3)京都の情勢と容保の即時上京主張 11月25日、老中板倉・小笠原が、フランス軍艦が大坂入港して朝廷に条約を迫るという風聞を根拠に、容保と旗本精鋭の急西上と慶喜・将軍の率兵上京を上書しました。同日、会津藩外島機兵衛も大目付岡部長常を訪問し、京都町奉行永井尚志との共同意見として慶喜と重職(もちろん含守護職)の即時上洛を訴えています(こちら)。 翌26日、幕府は、慶喜・容保・春嶽・容堂の即時海路上京を評議し、容保自身も春嶽を訪れて重職の早期上洛を訴えました(こちら)。これらの動きは、摂海・京都防禦を名目に、京都で勢力を伸ばす尊攘激派及び薩摩藩を武力でけん制しようというものでしたが、幕府は、結局、春嶽の提案する幕薩連合による京都会議を選びましたので(こちら)、容保の即時上京もなくなりました。 (4)勅使の出立・容保に二度目の暇 さて、勅諚は11月27日に伝宣され(こちら)、12月5日、幕府は攘夷の奉承と親兵設置の拒絶を伝えました(こちら)。勅使にとって必ずしも満足とはいえない結果にも関らず、この日が勅使は急いで江戸を出立し、京都に向ったのは上記の通りです。勅使が出立すれば、容保に対する滞府・周旋の沙汰も効力がなくなるわけで、容保の上洛は規定路線なのですが、即日、暇が言い渡された背景には、本音は武力制圧派である老中の意向が働いたのかもしれないと憶測しています。一刻も早く上洛し、京都守護職の座を狙う薩摩藩を掣肘したいと願っている(はずの)容保(会津藩)からの圧力もあったかも? なお、12月1日には容保実兄の前尾張藩主徳川慶勝に先発上京・老中格小笠原長行に先発上坂の幕命が、12月4日には慶喜に大坂湾視察のための西上の幕命が出ています(こちら)。 (お〜、だんだん、京都政局が近づいてきました^^)。 関連:■テーマ別:「容保の上洛遅延」「会津藩VS幕閣・春嶽」「会津VS薩摩(薩摩藩の守護職任命運動)」「将軍上洛下準備:京都武力制圧VS幕薩連合の京都会議」■守護職日誌文久2 参考:『続再夢紀事』一・『徳川慶喜公伝』2・『七年史』一・『維新土佐勤王史』(2004.1.26) |
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