12月の「今日  幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国-開城 HP内検索 HPトップ

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文久3年11月16日(1863.12.26):
【京】越藩中根ら、会津藩秋月悌次郎を訪問し、政変について聞く/
大久保一翁の返書、春嶽に届く/
会津藩、将軍後見職慶喜警護の一員として下坂
【肥】横井小楠の罪案決まる

■政変の事情
【京】文久3年11月16日、越藩中根靱負(雪江)らが、会津藩秋月悌次郎を訪問し、8月18日の政変の状況を尋ねました。

秋月が語ったとされるところによると・・・
<浮浪らの暴行は当夏以来いよいよ増長し、己の意見に適わぬ者があればみだりにこれを殺害し、あるいはその行為を誣して種々の暴言を書きたて諸方に貼り付けるなど、その悪行が極まり、心ある輩は大いにこれを憂い、もはや捨て置くわけにはいかぬとの議もあった。我が藩においては、「神人共に怒るの時あるべし」とその時機を考えていたところ、八月になって薩摩藩の高崎猪太郎が来て、「時機既に至れり。此上猶予すべからず」と申した。さらに協議に及び、近衛殿・二条殿へ参上して、浮浪の罪は既に極まったと速やかな処置を求めたが、御両所とも大事なので容易には処置できないと仰る。そこで中川宮に参上して言上したところ、宮は承諾されて、即内奏されたが、やはり即日断行には至らなかった。このまま差し置くわけにはいかぬ事情を再び言上し、初めて御処置を仰せ出されることに決した。十六日に決行の手はずとなったので、肩唾を呑んで待っていたが、宮は参内後ほどなく退廷され、何の御沙汰もなかったので、一時は非常に嘆息した。直ちに宮のもとに参上すると、本日は余儀なき都合で延期となったが明日は夜に入り必ずとの御内旨があったため、いささか安心したが、一日延期したので、宮は如何なる変を生ずるかと苦悩され、我々も苦心いたした。翌十七日夜になって国事掛その他諸卿の参内を停止され、薩会より人数を出して諸門を始め、諸所に配置した上で、長州の堺町門警備を解免されたが、長州は容易にその命を奉ぜず、勅使を下されるにいたってやむを得ず持ち場を引き渡すことになった。このとき、薩会の壮士らは「最早戦を開くべし」と申した事もた度々だったが、ついにそのような事もなく引き分れとなった>
(出所:『続再夢紀事』ニp233-235より。意訳は管理人。素人なので、著作物作成の場合は必ず原典にあたってね)

<ヒロ>
中根は、挙藩上京計画に関わる藩主の参府延期問題をめぐって6月14日に蟄居に処されていました(こちら)が、11月7日、約5ヶ月ぶりに蟄居を許され、藩命によって同12日に上京していました(こちら)。

秋月は政変のきっかけとなった会薩提携(こちら)の会津側当事者ですから、恰好の情報収集相手ですが、実は中根と秋月は、文久2年7月に越前藩と会津藩の会盟に努めた間柄でした(こちら)ので、顔つなぎの意味もあったのではと想像しています。言い換えれば中根が上京するまで秋月に接触した越前藩士はいなかった模様です・・・(薩摩藩とは繁く行き来しているのとは対照的です)

関連■テーマ別文久3「大和行幸と禁門の政変」■守護職日誌文久3 ■越前藩日誌文久3(2004.12.31)

■春嶽と一翁
【京】文久3年11月16日、大久保一翁の返書が、松平春嶽のもとに届きました。

一翁の書簡、これまた非常に興味深いのですが、ほかのものとまとめて整理しますね。

関連:■テーマ別文久2「大久保一翁
参考:『続再夢紀事』二p235-238

■山陵奉行
【京】文久3年11月16日)、山陵奉行戸田忠至は神武天皇陵検分のため、京都を出発しました。

参考:『維新史料綱要』五(2004.1.4)
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