2月の「幕末京都」 幕末日誌文久3 開国開城 HP内検索 HPトップ

前へ 次へ

文久3年12月27日(1864.2.4)
【江】将軍家茂江戸を出立
【京】慶喜・春嶽、将軍長期滞在の必要性を確認

■将軍再上洛
【江】文久3年12月27日(1864年2月4日)、将軍家茂が江戸を出立し、上洛の途につきました
。この日のうちに、翔鶴丸に乗船。(政事総裁職松平直克、酒井老中、水野老中、若年寄田沼・稲葉等も)

参考:『維新史料綱要』(2005.2.4)

【京】文久3年12月27日(1864年2月4日)、前越前藩主松平春嶽が後見職一橋慶喜を訪問し、将軍長期滞在の必要性を確認しました。

実は、この日、越前藩用人中根雪江が一橋邸会所に赴いて黒川嘉兵衛(一橋家臣?)に面会したとき、黒川から<慶喜公は将軍上洛の際に滞在期間の長短いずれであるべきかは当節の一大要件であると考えているが、先日の二条城会議では特に討論にならず、どうしたものか苦慮している。この際、大坂城の奥向きを改築して二、三年滞在することになれば、朝幕間の信頼も増すことはもちろん、贅沢に流れる大奥の旧弊を除く好機ともなるのだが、川越(=政事総裁職松平直克)・松山(=板倉勝静)以外の老中方の了解をえがたく、諸有司も俗論のみで、実現が難しい>と聞かされました。

中根が<上洛の始めから東帰を急ぐようでは天下のためにならず、安心できるまでいつまでも滞在するべきではないか>と意見すると、黒川は<有志の間ではそれで通るが、関東の陋見は実に名状しがたいもので、容易に動かないので、慶喜公は困却されている>と答えました。

帰邸した中根がこの一件を春嶽に告げると、春嶽は<一時も猶予すべきでない>と慶喜を訪問したのです。

春嶽が将軍長期滞在の必要性を説くと、慶喜は<同感なので及ばぬまでも尽力したいが、関東諸有司の団結は拙生一人の力をもって砕けるかどうか覚束ないので、貴官をはじめ、在京諸侯にも『合同一致』の力を添えていただくよう希望する>と答えました。両者は相談の結果、来る29日に伊達宗城(前宇和島藩主)、島津久光(薩摩藩国父)とともに熟談することを決めました。

参考:『続再夢紀事』二p310-312(2001.2.27、2005.2.4)
関連■開国開城「政変後の京都−参豫会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年「将軍・後見職の再上洛」■越前藩日誌文久3 ■徳川慶喜日誌文久3

【江】文久3年12月27日(1864年2月4日)、幕府は頼三樹三郎の墓碑建立を許しました。

関連:■開国開城安政5〜6(1858〜59):戊午の密勅と安政の大獄 ■テーマ別文久2年「違勅条約&安政の大獄関係者の大赦と処罰」■志士詩歌
参考:『維新史料綱要』(2005.2.4)

【江】文久3年12月27日(1864年2月4日)、幕府は、各国使節に輸入品税率低減を通告しました。

参考:『維新史料綱要』(2005.2.4)
前へ 次へ

2月の「幕末京都」 HPトップへ

お願い:こちらは素人の作成した趣味のHPであり、学問的な価値は全くないことをご承知ください。
なお、無断転載・改変・複写、及びやおい作品へのご利用は固くおことわりしますm(__)m。