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文久3年10月19日(1863.11.29)
【京】松平春嶽、松平容保を訪問/
【京】島津久光、松平春嶽に幕府が「私」を棄てることの重要性、賢明諸侯の会同
横浜鎖港問題反対等の意見を述べる。また、幕薩関係改善の仲介を依頼。
福岡藩主入京/

【京】文久3年10月19日朝、前日入京した前越前藩主(前政事総裁職)松平春嶽は、京都守護職(会津藩主)松平容保を訪問しました。

<ヒロ>
容保との間でどのような話がされたか、『続再夢紀事』の10月19日の項には記されていません。久光との会見の内容が克明に掲載されている(下記参照)のとは大きな差です^^;。おそらく、春嶽上京に尽力したことへの感謝を伝えたり、幕府や朝廷の動向を聞いたりしたのだと思います。どうも、突っ込んだ意見交換まではしなかったようすです。(容保が政治的能力を期待されず、国事の議論から疎外されているのは文久2年からの傾向なのですが^^;→テーマ別文久2「容保VS春嶽・幕閣」)
■参豫会議へ
【京】文久3年10月19日午後、薩摩藩国父島津久光は春嶽を訪問し、今後の方針を話し合いました。両者は幕府の私政脱却による公武一和、賢明諸侯の会同・天下の公理に基づく開国奏上等で、意見が一致しました。

<ヒロ>
それにしても、春嶽入京翌日の早速の訪問です^^。久光は10月3日に上京していましたが(こちら)、春嶽と会見してその意見をきくまではどこへも出かけず(こちら)、朝廷に建言をしないことにしていました(こちら)。(ここからも、薩摩藩が会津藩と提携して政変を起したのは緊急避難的なもので、薩摩藩にとって本来のパートナーは越前藩だったことが、ここからもわかるのではないでしょうか。国是決定に係る賢明諸侯に、容保は入っていませんし^^;)

『続再夢紀事』によれば、会見における久光の発言は以下に要約する通り。
  • 朝廷が春嶽の無断辞職・帰国の件を勅免して上京を達す際に、伝奏・議奏が非常に疑念を抱いて異議があったというが、中川宮・陽明家(近衛家)等は素より疑念なく、格別に配慮があったと聞く。
  • 政変以来今日に至ったが、未だに「朝廷の御規模」は確立しない。自分が正親町殿等に聞いたところ、(1)王政復古等の議論もなきににしもあらずだが、旧来通り「征夷府」(=幕府)に委任となるだろう;しかしながら(2)「征夷府」が「旧習の私政を脱却」せねば折り合い方が整わないだろう、との回答であった。
  • 今度は皇国の国是(=開国か鎖国か)が確定されるべき一大好機である。まず慶喜公・春嶽君・容堂君・宗城君等が集会して熟議し、朝廷からの下問にはその結果を上答すれば、国家の為にはこの上ない事と存じる。しかし、今日に至っても激論家はやはり無二念に打払うことを真の叡慮だと唱えているので、今般召喚のあった者が、熟議の結果を始め外国の事情も天皇に直接奏上し、叡慮を直にきくことになれば最も至当である。こうすれば、激論家がたとえどんな事を唱えても真偽は忽ち明らかである。
  • 朝廷が、過日、幕府が示命を待たず等々達したのは(=8月19日の攘夷督促の沙汰のことこちら)、8月18日に激論家を突然一掃したところで、朝廷に些少でも開国の口気があれば「薩奸の尻押」のせいだという嫌疑が起るのではないかとの懸念からであり、一時、人心を鎮静させる為であった。従って、朝廷の心意は橋公(慶喜)か誰かが速やかに上京して篤と「研究」すれば何とか処置しようというものであるのに、江戸では専ら鎖港談判を行っているのは、実に皇国の為、危殆の至りである。各国がもしその談判に服さず、他日大挙して渡来すれば、幕府はどのような対応をするつもりか。その時になって、たとえ談判以前の状況に復したとしても、最早手遅れであり、内外とも一時に騒乱に至るだろう。よって橋公が速やかに上京し、公武の一和は申すまでもなく、開鎖の可否が議定されることを懇願するものである。(注1)

これに対し、春嶽は、<そのような事になれば、五千年来綿々の皇統も三百年来太平の徳川も実に累卵に均しいだろう。よって、朝廷は厚く酌量し、関東は「断然幕私を去りて尊奉の実を尽くし、扨天理の公道に本き、其開くべくして鎖すべからざる理由を明白に天下に示」すべきである>との持論を述べました。

●七卿処分
久光が七卿の処置について問うと、春嶽は朝議次第であろうと回答しました。久光は、<朝廷では、逼塞であれ蟄居であれ、彼らを京都に置いては「暴論の輩」が集まって再び混乱となるので、大名に預けるべきだとの議論があると聞く>と述べました。

●薩英戦争の教訓:攘夷の困難さ
会見で、久光は、薩英戦争の次第も語りました。「軍艦と台場との戦闘は容易になし得べきにあらず」だったため、過日、尹宮(中川宮)へ攘夷が難事である話したものの充分に理解はしてもらえなかったそうです。二条斉敬右大臣にも、「台場より発砲するは利あるに似たれとも極めて堅固の台場ならざれば頼みがたし、況や今時の戦闘は剣戟のみ多数ありても其用をなさず」と言上しましたが、やはり充分な理解を得られなかったそうです。

幕薩関係の改善
久光は、自分は是まで聊かも幕府を疎外する意はないが、今日の様子では、場合によっては疑念をもたれる事もあるかと憂慮していると告げ、春嶽に幕府の疑念を解くよう依頼しました。春嶽は、自分は先代(=斉彬)以来の衷情を承知しているので疑いをもたないが、慶喜が上京すれば速かにその旨を説明しようと約束しました。慶喜が疑わなければ他の幕府関係者がもし疑っていたとしても、自然と氷解するだろう、という考えを示しました。

(以上、『続再夢紀事』)

(注1)●破約攘夷問題(横浜鎖港問題
久光は、鎖港について、(1)横浜鎖港の中止、(2)武備充実、(3)鎖港交渉使節の派遣中止を論じました(下記参照)。春嶽は、同意であるので慶喜上京の際には共に申し入れようと返答したそうです。

久光の意見は以下の通り。
○只今横浜一港を鎖港しても何の詮無もく、とても実現するものではない。却って「夷人之怒」を招くだけなので、是非御取止めありたい。(←横浜鎖港の中止)

○尤も「国内之武備充実」に務め、「御武威」が輝けば、「外夷は自ら承服」致すだろう。(←武備充実)

○よって、鎖港談判使節を送っても、「御国辱を醸生」するだけであり、差留てほしい。(←鎖港交渉使節の中止)
(以上「久光公覚書横浜鎖港一件」『玉里島津家史料』三より)

関連:■開国開城「将軍上洛と大政委任問題」政変後の京都−参与会議の誕生と公武合体体制の成立」■テーマ別文久3年:「松平春嶽再上京」「横浜鎖港交渉」「参与会議へ「将軍・後見職の再上洛」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」

参考:『徳川慶喜公伝』2、『続再夢紀事』ニ、『玉里島津家史料』三p189( 2001.11.28、 2004.12.10、2007.12.12、2010.4.5)

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