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■攘夷期限 【京】文久3年2月8日、尊攘急進派公卿の姉小路公知ら12名は、連署して、朝議が「因循」することないようにとの上書を、鷹司輔熙関白、近衛忠煕前関白、中川宮(青蓮院宮)、議奏・伝奏に提出しました。 上書大意は以下の通り:
上書には姉小路の他、正親町実徳、三条西季知、橋本実麗、豊岡随資、滋野井実在、東園基敬、正親町公菫、壬生基修、四条隆、錦公路頼徳、沢宣嘉が署名していました。 関連■テーマ別「攘夷期限」■開国開城:「幕府の公武合体派連合(幕薩連合)策」 「後見職・総裁職入京-公武合体策挫折と攘夷期限」 ■浪士対策 【京】文久3年2月8日、前土佐藩主山内容堂が一橋慶喜を訪ねて浪士対策を協議しました。大目付岡部長常・目付沢勘七郎・水戸藩執政(慶喜に随従して滞京中)武田耕雲斎も陪席したそうです。 <ヒロ> 何が話されたかは『徳川慶喜公伝』にはのっていません・・・。容保の浪士を武田耕雲斎に附属させて、自分の指揮下に置き、攘夷先鋒にすべきという意見書(こちら)と、春嶽のまず朝議を固めるべきという建白書案(こちら)が話されたのでしょうか。武田耕雲斎も協議に出席していたといいますから、容保の案について、意見を聞かれたのかもしれませんネ。翌9日には慶喜・容堂らが春嶽邸を訪ね、容保も交えて浪士対策を協議していますから、容保を説得するために、まず公武合体連合策派の意見を固めたのかも?? 関連■テーマ別「浪士対策」 ■上洛浪士組 【江】文久3年2月8日、浪士約300名が、江戸小石川伝通院に集合し、中京都に向かって、出立しました(『東西紀聞』)。 このうち、約20名ほどが鹿革紋付割羽織を着用しており、「水戸天狗連之由、右浪士一同勇敷有様ニ後座候」と描写されています。 <ヒロ> 水戸天狗連(筑波挙兵の天狗党という意味ではなく、水戸藩尊攘改革/激派のこと)は、おそらく、芹沢鴨を始めとする水戸一派ではないかと思います。人目をひくグループだったのでしょう。 なお、2月3日以来、横浜には英国艦隊が続々と入港していました(こちら)。生麦事件の償金交渉が進まないのにいらだった英国が軍艦の威力を背景に交渉を迫ろうとしたのだとされています。もともと浪士たちは「尽忠報国」のため「一方の御固め」(=尊王攘夷)を目的として集められています(こちら)から、騒然とした雰囲気の中での出立ではなかったでしょうか?(ドラマなどでこのへんと絡めてくれると面白いのですが・・・大河は見てないのでわからないですけれど) また、浪士組は中山道を通っての上京となりますが、これも、東海道を通ると横浜周辺を通過することとなりますから、無用の混乱を避けたかったのではと勘ぐってしまいます。 関連:■清河/浪士組日誌文久3(@衛士館) |
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