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文久3年3月9日(1863.4.26)

【京】松平春嶽、幕府に総裁職辞表(内願書)提出
【京】浪士組の東帰再度順延

■春嶽の総裁職辞任
【京】文久3年3月9日、政事総裁職の松平春嶽は、政事総裁職辞任の内願書を提出しました

春嶽は、この日、登城せず、目付杉浦正一郎を介して内願書を提出するつもりでした。しかし、杉浦は、春嶽の決意を伝えるのは構わないが、書面の伝達は「迷惑」だと断ったので、別に使者を派遣しました。

総裁職就任以来、及ばずながら公武合体の御主意が貫徹するよう深く心痛してきた。特にこの春上京以後、一橋中納言と協力して、ただただ勅旨遵奉の外はないと、今日まで勤めてきた。
もともと不肖の身ゆえ、とかく御一和の筋が徹底せず、このままでは、下は民の塗炭を救い、上は宸襟を安んじる見込みも立ちがたく、「奉仕之目途」を失い、「危急之御時節」にとても職が務まらない。速やかに解任されるよう伏して願いあげる。
勅命で就任したので、このことを朝廷にも御取成しいただきたい。

○おさらい
将軍に先立って上京していた後見職一橋慶喜と総裁職松平春嶽春嶽は、長州藩を後ろ盾にする尊攘急進派の勢力を覆すことができず、それどころか、実行不可能な攘夷の期限を将軍滞京10日・帰府後20日以内と約束し(こちら)、さらには期限は4月中旬だと回答していました(こちら)。また、浪士の横行も、朝廷が「暗に其所為を庇護」するため、幕府が処置することは容易にもかかわらず、放置せねばならない状況でした。

春嶽は、事態を打開するには大政委任(政令帰一)か政権返上しかないと考え、慶喜らとも意見が一致したので(こちら)、2月21日、慶喜とともに関白鷹司輔熙・前関白近衛忠煕に二者択一を迫りましたが、関白らは、「蔭武者」を後ろ盾にする急進派の「激論」を挙げて自信がないといい、御前会議開催を求めても自分たちだけでは判断できないと難色を示しました。このとき、関白は将軍上洛時には大政委任の沙汰があるよう計らうと述べていました(こちら)が、春嶽はまともにとらなかったようです。

失望した春嶽は、2月30日に重臣たちに進退を協議させた結果、公武一和周旋に見切りをつけ、将軍上洛後に辞表を提出することを決めました(こちら)。3月3日、将軍家茂を大津まで出迎えた際に、辞意を伝えるとともに、将軍辞職(/政権返上)を上言すると(こちら)、次いで5日、二条城で将軍と謁した際にも辞意を告げ、将軍辞職の意見書を提出していました(こちら)

一方、慶喜は、将軍上洛を機に、天皇から直接、庶政委任の再確認を得ようと考え、春嶽らの同意を得た上で、5日に参内し、庶政委任の親勅(口頭)を獲ることに成功しましたが、鷹司関白から下付された勅語の書取りは「征夷将軍の儀」委任とされ、攘夷尽力に念を押すものとなっていました。さらに、翌々7日、将軍に下付された勅書は、尊攘急進派を慮ったのか、「征夷将軍の儀」委任、攘夷尽力に加え、事柄によっては諸藩に直接沙汰ありという文言が含まれていました。

春嶽が希望した庶政委任による政令帰一は全くの失敗に終わり、連携を期待した久光の上京を待たずに「奉仕之目途」を失ってしまったのでした・・・。

参考:『続再夢紀事』一p307-408・『徳川慶喜公伝』2(2001.4.26)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か政権返上か)問題」「春嶽の総裁職辞任」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年

■浪士組東帰
【京】文久3年3月9日、予定されていた浪士組の東帰が再度順延されました。(『官武通紀』)

この日、浪士取扱役鵜殿鳩翁・高橋謙三郎(泥舟)が浪士取締役山岡鉄太郎(鉄舟)・松岡萬に宛てた書状によれば、鳩翁・泥舟ら浪士取扱は、一度は残留希望浪士の希望を認めることにして達文を下したのですが、(おそらく)老中らに相談したところ、浪士全員を引率して帰東することになったようです。

<・・・昨夜鳩翁より御達し申し置いた浪士の向、京都滞留の件について、今日、(老中に?)事実を申上げたところ、(残留浪士を江戸へ?)御引戻しとなったので、(昨夜の達文を)御手元へ御差置、浪士の向へお達しなされぬように。・・・。なお、もし、(昨夜の達文を)御達し済であれば、ただちにお戻しなされるよう。多分、鳩翁も(浪士組と)一緒に帰東となるような模様である>

(3月9日付け浪士取締役山岡鉄太郎(鉄舟)・松岡萬宛、浪士取扱役鵜殿鳩翁・高橋謙三郎(泥舟)書状「同志書簡集」『清河八郎遺著』意訳・注釈byヒロ。引用は原文にあたってください)

ところが、全員を連れて帰ることは不可能でした。

『官武通紀』によれば、鳩翁は浪士を全員連れてかえる意向だったが、浪士内に「関東浪士(江戸に帰る浪士)」と「京師浪士(京都に残る浪士)」と派閥ができて、「讐敵」のように敵対し、全員連れ帰るのは不可能だったそうです。清河八郎などは、京都に残る浪士を手にかけようという勢いとなり、議論紛々、争いはおさまる気配がなかった。9日に出立の予定だったが、延期となってしまった・・・といいます。

<ヒロ>
関東浪士(特に清河)と京師浪士の対立については、近藤が佐藤彦五郎ら故郷の18名にあてた書簡にもみることができます。

「清河八郎、村上俊五郎、石坂周造、木村久之丞、斎藤熊三郎、白井庄兵衛、右6人は洛陽おいて鳩首いたすべきと周旋つかまつり候ところ、折り悪く、誅戮を加えず候。右の者儀は道中より拙者ども違論にござ候」(文久3年3月26日付近藤書簡)

この清河暗殺未遂について、永倉の直筆の手記では、老中板倉伊賀守から清河を暗殺せよとの内意が、取調役(取締役?)と芹沢鴨組一統に達しがあったので、手をまわして清河八郎の跡をつけて暗殺しようとしたが、山岡鉄舟が御朱印をもって始終清河についていたので殺すことができず、残念ながら帰営し、取締役に残留を願い出たとあります。(「浪士文久報国記事」)

「芹沢鴨一統」に達しがあったという記述が興味ぶかいです。残留組での芹沢派の存在感をものがたっていると思います。

また、永倉の伝記にも暗殺が記されていますが、清河暗殺は二手にわかれて待ち伏せをしたそうです。そのわけかたは、芹沢・新見・山南・平山・藤堂・野口・平間の6名と、近藤・土方・沖田・永倉・井上・原田の5名でした。(『新撰組永倉新八』)

これが正しいとすれば、芹沢組に山南・藤堂がはいっているのがおもしろいと思います。芹沢組の彼らは(たぶん朝廷>幕府な)尊攘派で、のちに全員が近藤らによって粛清されています。これは偶然なのか、それとも山南・藤堂は残りの近藤らとは、そのころから少し毛色が違っていたのでしょうか・・・。(また、これは、山南と藤堂がともに行動していることを示す数少ない記録でもあります^^)。

(2000.4.26)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)
【京】文久3年3月9日、土佐勤王党の間崎哲馬は、清河八郎に「会いたいことができた」と、再び訪問を請いました。

<御文意縷々夫々承知いたしました。拙筆のできた分は令弟に渡しました。後は短尺とともに虎太郎が持参するはずです。甚だ申しにくいことですが、ご出発までに是非面会いたしたいことができましたので、山岡君か君かお一人が来てくださるよう伏してお願いします>(3月9日付間崎哲馬書簡 『清河八郎遺著』口語訳byヒロ)

◇文久3年3月1日-長州・伊藤俊輔(博文)、土佐・吉村寅太郎、清河に親兵設置周旋を依頼/間崎哲馬、清河に感謝の書簡
(2003.4.26)

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