5月の幕末京都 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■将軍東帰&生麦事件賠償 【京】文久3年3月15日、外国奉行並柴田貞太郎・目付堀宮内が江戸から到着して、英国・外国側の生麦事件賠償に関する強硬姿勢と将軍帰府延期に対する疑念を説明し、速やかな将軍帰府を訴えました。 柴田らの説明の大意は以下の通り。
○おさらい:将軍滞京延期運動 慶喜・春嶽・容保・容堂は、将軍上洛前の2月11日、攘夷期限設定を迫る勅使に対して、将軍滞京は10日間で、さらに江戸帰還後20日以内に攘夷談判に着手すると約束し(こちら)、その後、さらに期限は4月中旬だと奏していました(こちら)。将軍は3月4日に着京しましたので、約束によれば、将軍は14日には東帰し、4月中旬までには攘夷を断行せねなくてはなりませんが、とうてい実行不可能でした。そこで、慶喜は、今後の公武一和の実現や薩摩藩国父島津久光の近々の入京・尽力周旋に期待して、将軍滞京期間の延期を画策しました。ちょうど、江戸において生麦事件の談判が予断を許さない状況でもあり、慶喜は、3月8日(10日?)、京都守衛のための将軍滞京延期と江戸防衛のための水戸藩主徳川慶篤東帰を奏請しました。(こちら)。これを受けた朝廷は、11日、「公武一和人心帰趨」のための将軍滞京延期を認め、(慶篤ではなく)慶喜か春嶽の東帰を命じ(こちら)、翌12日にはどちらが帰府するかの返答及び一方の両日中(当初の将軍滞京期限)の退京・帰府を催促しました(こちら)。幕府が明答しないので、前14日、朝廷は鎖港交渉のため春嶽帰府を命じたばかりでした(こちら)。 ↓ ↓ この日柴田が説明した英国側の姿勢は慶喜らの予測を超えて深刻であり、将軍滞京から東帰へと方針を変えることになります(こちら)。(春嶽が9日から辞職内願中で、江戸防衛のための東帰の朝命に従えない事情も、加味されたかも?↓) 参考:『伊達宗城在京日記』(2004.5.3) 関連:■開国開城:「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京■テーマ別文久3年:「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題」 ■大政委任vs政権奉還(春嶽、辞表提出中) 【京】文久3年3月15日暮時、政事総裁職辞表提出中の松平春嶽は、老中板倉勝静を呼び出し、将軍辞職・政権返上覚悟で、攘夷拒絶・生麦事件償金支払問題等の難局にあたるべきだと説きました。 この日、板倉を呼び立て<幕府が将軍辞職という自分の意見を実行しないのは、諸有司が姑息で、万一の僥倖をあてにして、政権を棄てることを惜しむからである。いかに政権を失うまいとしても、攘夷拒絶や生麦事件償金支払の定見を朝廷に言上せず、空しく時を費やせば、天下の危難が直ちに起こり、とうてい政権を維持することはできない>と述べ、<将軍が速やかに辞職し、幕府から政権を返上する覚悟を決めた上でこの難局にあたるべきだ>と説きました。 板倉は春嶽のいうことももっともで慶喜に相談すると答えました。 やりとりの概容は以下の通り↓
<ヒロ> 春嶽は事態打開には政令帰一(大政委任か政権返上か)しかないと考えていました。これは慶喜や老中たちも同意見でしたが、将軍上洛前の政令帰一運動(つまり、大政委任の確認)は失敗しました。そこで、春嶽は、大政委任に見切りをつけ、将軍辞職(政権返上)を主張してきました。 この日の板倉とのやりとりをみていると、将軍辞職、政権返上といっても、政権を投げて朝廷に任せてしまえというのではなく、要するに政権返上覚悟で積極開国を奏上せよといいたかったようです。「大開国大攘夷」です。政権返上覚悟の開国上奏は、上京前の文久2年10月にも、 「日本全国の為」の開国論(こちら)を主張した慶喜に入説していますが(こちら)、このとき、慶喜の反応は曖昧で、老中を説得することに躊躇を示しました(こちら)。開国奏上は必要だと思っていましたが、政権返上までは考えていなかったのです。 文久3年の慶喜も同じでした。慶喜は、今度は将軍上洛を機会に、天皇から直接に大政委任の確認を得るよう工作をしました。しかし、それが裏目に出て、7日の勅(「征夷将軍の儀」の委任、攘夷尽力、事柄によっては諸藩に直接沙汰あり)により、全面的な大政委任は否定されました。 こうなると、春嶽の政令帰一論的には、政権返上しか選択肢ないはずなのに、慶喜/幕府は、自分の意見を聞かず、依然として朝廷に妥協することで時間を稼ごうとし、生麦償金問題にいたっては薩摩藩に尽力を期待し、その周旋を辞表提出中の春嶽に頼むという体たらくでした。その上、朝廷に春嶽の辞意を伝えておらず、朝廷からは、春嶽に帰府して、なんと「交易拒絶談判」にあたれと命令が出る始末です。つまり、将軍に代わって、4月中旬の攘夷期限までに鎖港(当然生麦事件償金拒絶を含む)を断行せよというのです。(しかも、幕府は春嶽が出仕しないのを所労のせいにしていたようで、総裁職なんだから所労をおして帰府せよといわれてしまうおまけつき)。このままではたまりません。辞表出したのだから後はご勝手にとはいかなくなってしまいました。それで、改めて老中を呼び出し、政権返上の覚悟をもって攘夷の「定見」、すなわち積極開国を言上して、難局を乗り切るよう、諭したのだと思います。(朝命のことは自分ではいわず、家臣に言わせてますが↓)。春嶽は「諸有司」の抵抗勢力にしていますが、言外に慶喜や老中も含めているのは間違いないです。 春嶽の意見はなるほどなのですがそこまでいうなら、、自分も同時に朝廷に辞表を提出して、政権返上覚悟の開国奏上に加わるべきですよね。自分はやる気をなくして職を投げ出そうとしている上、一切の協力を拒んでいるのに、こういうこと言っても説得力がないですよね・・・。しかも、政権返上した後のビジョンもないし・・・(やっぱり、小楠抜きだとこうなっちゃうんでしょうか?) ○おさらい 公武一和の周旋に限界を感じた春嶽は、2月晦日、重臣たちと諮った上で、辞職を決め、将軍上洛後に辞表を提出することにしました(こちら)。3月3日に、将軍家茂を大津で出迎えた際に、京都の事情を説明して、「道理に依りて事を成す」ことが不可能な上は将軍職を辞するべきであり、自身も辞職する覚悟だと述べると(こちら)。将軍入京の翌5日には改めて辞意を伝え、将軍辞職/政権返上の意見書を提出しました(こちら)。9日には、ついに幕府に総裁職辞表を提出して、藩邸に引篭り(こちら)、11日の賀茂行幸にも随従しませんでした。 翌12日には、薩摩藩士高崎猪太郎が越前藩邸にやってきて、久光が14日に入京するので、入京したら即、対面してほしいと申し入れましたが、これも断りました(こちら)、同日夜には、慶喜が老中格小笠原長行らを伴って春嶽を訪問し、辞職再考を促した上で、特に、近々久光が上京することから、「御懇交」の仲をもって、生麦事件償金問題解決について協力するよう求めました(こちら)。しかし、春嶽は、辞意を撤回するつもりはなく、生麦事件についても、既に辞表提出中の身であり、いかに「懇意」であっても、この一件に限って周旋するのは島津家に対して「不面目」である上、特にこの一件は、「懇意」により周旋するより、幕府が「公然」と談じた方が「政府の威権」も立つので承諾すべきではない、と考えました。それで、翌13日、中根を二条城に派遣して、その旨を返答させましたが、その際、老中からは、辞意撤回の件は置くとして、生麦事件の周旋だけは是非承諾してほしいと頼みこまれていました(こちら)。 しかも、辞表提出中の春嶽に対して、前14日には、朝廷から、東帰・「交易拒絶談判」(当然、生麦事件償金交渉を含む)を命じる沙汰が下りました。(幕府は朝廷に春嶽の辞意を伝えていませんでした)。 関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題」 ■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』一p421-423(2001.5.2, 2012/4/29) ■春嶽辞任 【京】文久3年3月15日、松平春嶽は再度辞表を提出しました。 この日、老中板倉勝静が春嶽に呼び出されて越前藩邸に来邸した際、越前藩重臣の柏山城、本多飛騨、岡部豊後が、板倉に謁し、春嶽の総裁職辞任の許可を求めましたが、板倉は明答を避けました。 やりとりはこんな感じ↓
9日に出した辞職内願書が容易には裁可される様子がないので、春嶽は、改めて辞表を提出しました。 <ヒロ> 将軍辞職・政権返上覚悟の開国上奏こそ、唯一の打開策だと思っている春嶽/越前藩にとって、鎖港交渉のために江戸に行けという朝命は、とんでもない!という感じですよね。(それに、鎖港交渉が成功するわけなし、失敗の責任とらされるのもまっぴら・・・じゃないでしょうか) 参考:『続再夢紀事』一p423-424(2001.5.2, 2012/4/29) ■浪士対策&壬生浪士 【京】文久3年3月15日、残留浪士24名が会津藩公用方と面談し、公式に会津藩お預かりとなりました。 京都残留したい浪士は会津へ申し出るようにと鵜殿鳩翁から触書をまわしたところ、24名が残ることとなりました。彼らのうち、病の4名の除いた20名が会津藩をたずね、公用方と面談し、差配が正式に決定したようです。彼らが会津藩邸を訪ねたのは松平容保が二条城に出かけた留守中であり、家老の田中土佐と横山常徳(主税)が応対したようです。彼らは酒食をもてなされて感激して退出したとのことです。 田中と横山連名の江戸の会津藩庁宛書簡によれば・・・
<ヒロ> 会津藩差配を希望した浪士には、芹沢らの「江戸浪士」だけでなく、藤本鉄石に率いられる在京浪士34名がいました。 実は、会津藩は、残留浪士だけでなく、京都在住の浪士のとりまとめも図っていました(こちら)。それに応じたのが、のち天誅組総裁となる藤本鉄石や六角源氏の騒動を起こした佐々木らだというのがなかなか面白いのですが。残留浪士差配も、言路洞開から始まる会津藩の浪士対策(懐柔策)の一環だったわけです。『会津松平家譜』には、残留浪士差配の記録のところに、「・・・諸浪士相継ぎて来たり属す。これを新選組と称す。後ついに大いに我が用をなすに至る」と注釈がされており、諸浪士のひきうけ場として考えられていたこともうかがえると思います。それにしても、問題を起こす可能性のある浪士のすべてが会津藩の旗下に属すはずもなく、両家老の「浪士が会津藩の公正な処置に感激して帰趨するだろうから、いずれ容保も安堵されるだろう」というのは、かなり楽観的観測だった気がします。 さて、文久3年3月23日付近藤勇書簡(志大略認書)によれば、12日夜には会津藩の差配がきまっていたようですが(こちら)、それが正しいとすると、その後、会津藩からの連絡がないので、15日、アポ無しで藩邸におしかけて「指図してほしい」と願い出たというところでしょうか。公用方も面くらっているようで、会津藩が浪士をどう使うか決まってはいなかった様子がうかがえます。容保は翌16日には近藤らを謁見したようですが、この日のデモンストレーションが功を奏したというところでしょうか。 また、容保は、これ以前に藤本鉄石らには御目見えを仰せ付け、13日には謁見していますので(こちら)、両者への対応の差が感じられます。会津藩は、残留浪士よりも、その他の在京「有志」浪士の差配に関心が高かったこともうかがえるのではないでしょうか。 なお、先に近藤が17名がお預かりになったとしていましたが、結局、これに7名が加わった人数が会津藩お預かりとなりました。この7名は家里次郎、遠藤丈庵、殿内義雄、粕谷新五郎、上城順之助、鈴木長蔵、清水五一ですが、そのうち3名が病気で欠席ということになっています。家里・殿内は鵜殿から残留浪士をまとめるよう命じられており(『会津藩庁記録』)、それに応じた人数とみられますが、芹沢一統はこれとは別口で動いていたようです。のちに、殿内は、近藤らによって天誅されます(文久3年5月付け近藤勇書簡)から、なにかの対立があったようです。会津藩に記録されている名簿の順蕃も、殿内派は芹沢・近藤派のあととなっており、人数が少ないからか、鵜殿から正式に残留浪士をまとめるよう依頼されていたにも関わらず、すでに、この時点で、劣勢に立たされていたことがうかがえると思います。 (会津藩の浪士対策と残留浪士差配について、もうちょっと考えてから特集にアップしたいです^^) 関連:■開国開城:「天誅と幕府/守護職の浪士対策」■テーマ別文久3年:「浪士対策」■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館) <参考>『会津藩庁記録』・『会津松平家譜』・『京都守護職始末』・『新選組史料集コンパクト版』(2001.5.2、2004.5.3) |
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