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文久3年3月13日(1863.4.30)
【京】春嶽、幕府に、辞意撤回と生麦事件に関する薩摩藩周旋とを断る
【京】浪士組、東帰の途に
【京】浪士対策:藤本鉄石・井伊勘平、会津藩を訪ねる

■春嶽辞任&生麦事件償金問題
【京】文久3年3月13日、辞職を内願中の総裁職松平春嶽は、二条城に家臣中根靭負(雪江)を遣わして生麦事件に関する薩摩藩への周旋を断らせました

前夜、慶喜、老中格小笠原長行等が来邸し、(1)辞職の翻意と(2)生麦事件償金問題に係る薩摩藩への周旋を頼んでいきました。これに対し、春嶽は、(1)辞職はとうてい翻意しえない、(2)生麦事件についても、既に辞表提出中の身であり、いかに「懇意」であっても、この一件に限って周旋するのは島津家に対して「不面目」である上、特にこの一件は、「懇意」により周旋するより、幕府が「公然」と談じた方が「政府の威権」も立つので承諾すべきではない、と考え、この旨を返答させるため、中根を二条城に派遣しました。

登城した中根が、岡部長常に面会して春嶽の意見を陳述したところ、岡部が重大事の返答なので、直ちに老中に会うべきだと勧めたため、中根はさらに老中水野忠精と板倉勝静に謁しました。
中根 (春嶽の返答を陳述)

板倉・
水野
老中
春岳殿の御趣意はもっともだが、「艱難に迫れる今日」なので、とにかく御出勤あるよう願う
中根 皇国万世の汚点になることは目前ゆえ、在職すべきではないと一藩を挙げて決めましたので、とても出勤にはならないでしょう。

板倉・
水野
老中
では、出勤は暫く置くとして、生麦事件は是非とも御周旋願いたい。(久光と)「懇意の故を以て」(春嶽が)周旋するより、「公然政府より」談じる方が、「政府の威権も立」つという(春嶽の)御意見は一理あるようだが、懇意の周旋なら、たとえ失敗しても再びやり直しがきく。しかし、正面より談じては、容易に「圓熟」すべき事も「圓熟」に至りがたい。その上、万一失敗してはやり直しがきかない。そこで、この一件に限り、何分にも周旋を願いたい。今一度、春嶽殿にこの意を申し上げ、御承諾あるよう取り計らわれたい。もし、この一事のため御出勤になるのが不都合だとの御懸念があれば、島津家の家来と懇意な御家来が、家来同士で相談するなりして周旋するようしてほしい。
中根 止むを得ません。春嶽に申してみましょう。

○おさらい
公武一和の周旋に限界を感じた春嶽は、2月晦日、重臣たちと諮った上で、辞職を決め、将軍上洛後に辞表を提出することにしました(こちら)。3月3日に、将軍家茂を大津で出迎えた際に、京都の事情を説明して、「道理に依りて事を成す」ことが不可能な上は将軍職を辞するべきであり、自身も辞職する覚悟だと述べると(こちら)。将軍入京の翌5日には改めて辞意を伝え、将軍辞職/政権返上の意見書を提出しました(こちら)。さらに、3月9日に総裁職辞表を提出して、藩邸に引篭り(こちら)、11日の賀茂行幸にも随従しませんでした。前12日には、慶喜・老中格小笠原長行らが春嶽を訪問して再考を促すと、特に、近々久光が上京することから(14日着京)、「御懇交」の仲をもって、懸案の生麦事件償金問題解決について是非協力してほしいと要請していました(こちら)

<ヒロ>
なお、12日には、薩摩藩から高崎猪太郎がやってきて、久光が14日に入京したら、即、対面してほしいと申し入れていましたが、春嶽は断っていました(こちら)。今さら、幕府にいわれて、薩摩藩との間をとりもつことはできないという気になるのはわかる気がします・・・が・・・ここは、頑張ってほしかった・・・。

参考:『続再夢紀事』一p416-418(2012/4/29)
関連:■開国開城:「将軍家茂入京-大政委任問題と公武合体策の完全蹉跌」 ■テーマ別文久3年:「政令帰一(大政委任か大政奉還か)問題」「春嶽の総裁職辞任」「生麦事件償金支払&第一次将軍東帰問題」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年
■浪士組東帰
【京】文久3年3月13日、鵜殿鳩翁は清河八郎ら浪士組を率いて東帰の途につきました。

<ヒロ>
一説(「清川正明伝」『殉難録稿』)に東帰したのは122名だといいます。上京した浪士は清河書簡によれば250余名ですから、半分が東帰。残りの半分は残留したことになります。会津藩に残留希望を出したのは17名ですが、残りの100名近くの浪士はどうなったのでしょうか・・・??

関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)(2000.4.29、2001.4.29)

■浪士対策
【京】文久3年3月13日、藤本鉄石・井伊勘平が守護職松平容保に面会しました


藤本・井伊は、さきに、在京浪士の34名のリストを提出し、「御手へ附一分ご奉公仕度」と内願していました(日付は不明ですが、10日に幕府から在京の有志の浪士差配が命じられたこちら後のことではないでしょうか)。この日、謁見を許され、会津藩を訪れた彼らは、食事を出され、手厚い取扱を受けて、感服して帰ったそうです。在京家老の田中土佐・横山主税が江戸の重職に宛てた書簡では、浪士は「御家の寛大高正の御処置」に追々、帰趨する様子であり、遠からず容保も安堵されることになるだろう・・・と楽観ししています。(文久3年3月25日付萱野権兵衛ら江戸重職宛田中土佐・横山主税書簡)

<ヒロ>
残留浪士は16日に容保と謁見していますが、それより3日も早いことです。残留浪士との謁見は差配が決まった後だが、鉄石らとは差配が決まる前である。25日付の書簡で楽観ししているので、その後も鉄石らとなんらかのコンタクトがあったのではないでしょうか。慶喜も浪士対策には楽観しています。

鉄石の意図は何なのか。前日、清河にエールを送っていますし、これは清河と相談の上のことではないでしょうか。本気なのか?様子をうかがいにきたのか?・・・いろいろ考えていきたいと思います。

<参考>『会津藩庁記録』一(2000.4.29、2001.4.29)

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