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文久2年5月19日(1862.6.16)
【京】島津久光、東下の強い決意を示す/
【江】九条関白辞職し、近衛忠煕を関白にとの議
【江】一橋慶喜を水戸藩主養子にとの議

■久光の率兵上京と勅使東下
【京】文久2年5月19日、薩摩藩国父島津久光は近衛忠房に書簡を送り、東下の強い意思を示しました。

◆勅使延期問題
去る5月8日に勅使大原重徳の東下を決めた朝廷(こちら)は、11日には勅諭案を議定し(こちら)、翌12日に久光に勅使に随従するよう命じていました(こちら)。勅使東下の日取りはいったんは16日に決まりましたが、その後、予定されている首席老中久世広周【くぜ・ひろちか】の上京後に延期することになりました。久光はこの勅使東下延期に強く反対していました(こちら)が、朝議は覆らず、18日には忠房、延期について久光に説明したばかりでした(こちら)

この日の書簡で、久光が忠房に示した対案は、勅使とともに東下し、その途中で上京中の老中久世広周と会って勅旨を伝達するというものでした。さらに、滞京中の家臣が多数でいつ暴発するか予測し難く、かつ藩邸が狭く知恩院を借用できなければ取締も徹底できないとして、東下が叶わないときは帰国するしかないとの強硬姿勢を示したそうです。

また、久光は藩士堀小太郎(伊地知貞馨)を岩倉具視(大原重徳を勅使に推薦)に派遣し、勅使東下が延期になっても自分だけは予定通り東下するつもりだとの決意を告げさせたそうです。大原も、議奏中山忠能に対し、幕府に先んじられては朝威を損なうと、予定通りの出立を主張したそうです。

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「将軍上洛問題」「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」 ■薩摩藩日誌文久2

参考:『維新史』三(2003.6.16)

■関白任免と幕政改革
【江】文久2年5月19日、幕閣は、九条尚忠の関白辞職と近衛忠煕(このえ・ただひろ)の関白任命、及び一橋慶喜を水戸10代藩主徳川慶篤(よしあつ)の養子にする件について評議をしました

慶喜を将軍後見職に推していた幕政参与の松平春嶽は、これは「幕私の御相談」であり、そのような「得手勝手なる儀」には不同意だと主張しました。さらに、将軍上洛を説きましたが、費用がかかる上洛よりまず幕政改革だと反論されたそうです。

なお、幕政参与を命じられたものの建言が悉くいれられない春嶽は、この日頭痛で早退したそうです。

<ヒロ>
◆関白任免について
当時、関白の任免は朝廷が決めることはできず、幕府の承認が必要でした(文久2年末にこの手続きは廃止されます)。関白の役職手当ては幕府から支給されており、代々の関白はいわば、幕府の意を受けるかたちで朝廷政治を牛耳ってきました。九条尚忠は安政の大獄時の関白でもあり、激派公卿や尊攘浪士から憎まれており、寺田屋事件の際にも襲撃が計画されたほどでした。後任として名前の挙がった近衛忠煕は薩摩藩とは縁戚関係にありました(妻が島津斉興の養女。息子忠房の妻が島津斉彬の養女)この人事に薩摩藩の意向が関係していることは言うまでもないと思います。

慶喜を水戸藩養子にとの件
慶喜は水戸9代藩主・故徳川斉昭の子であり、当主慶篤にとっては実弟になります。表向きは水戸藩の情勢が不穏なので養子にしてはどうかということだったそうですが、その実は、慶喜を後見職にという勅命を避けるためだったといいます(『徳川慶喜公伝』)。

参考:『再夢紀事・丁卯日記』・『徳川慶喜公伝』(2003.6.16)

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