7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■生麦事件償金問題 【京】文久3年5月19日、生麦事件の償金交付(こちら)の報、及び一橋慶喜の将軍後見職辞表(こちら)が京都に届きました。 この知らせを聞いた会津藩は驚きました。公用局員は「皆額を顰めて曰く、事ここに至る、いかにして天朝に謝し参らすべきと」(『七年史』)という状況だったとか。 <ヒロ> 幕府が朝廷に約束した攘夷期限の5月10日はとうにすぎているのに、江戸からは何の報知もありませんでした。いらだった朝廷は、5月16日、将軍補翼の徳川慶勝に対して償金拒否の交渉状況を知らせよと命じ、慶勝は18日に将軍が東帰して交渉を進めるよう取り計らうことを上申したばかりでした(こちら)。 参考:『維新史』三・『七年史』 ☆5月12日に、越前藩士中根靭負が紀州藩士伊達五郎から聞いた話によれば(『続再夢紀事』)、生麦償金支払の報は、少なくとも11日以前に京都に届いており、朝幕ともに大騒動になっており(こちら)、翌13日には、中根は、板倉老中から、江戸から到着した武本甲斐の伝えた支払の事情をきかされています(こちら)。慶勝や会津藩は情報から置き去りにされていたのでしょうか・・・??? ■老中格小笠原の率兵上京 【江】文久3年5月19日、生麦事件償金交付を朝廷に弁明するためとして、老中格小笠原長行が慶喜の命により上京の途につきました。 しかし、小笠原はすぐには京都へ向かわず、横浜に滞在し、28日にひそかに英艦を借り、歩兵と騎兵を合わせて約1600人を率いて乗船し、海路大坂へ向かいました。 <ヒロ> 小笠原の率兵上京の意図は兵力をもって攘夷の朝議を一変しようとしたもの(往年の京都武力制圧計画の実現)だとも、京都で足止めされている将軍を守衛または迎え取るためだとも、攘夷決行の手勢を増員するためだともいい、確かなことはわかっていません。ただ、小笠原はのちに公卿の中に内応する人がいたので上京したがその人が不慮の禍害を受けたため蹉跌したと語ったとされており、姉小路公知とはかるところがあったと推定されています。 慶喜は、後年、「単身上京して罪を闕下に待たば、かねて消息は通じ居れば、別に咎を得ることもなかりしからんに、其大兵を率いて上洛せしは、図書頭(=小笠原)の失策とはいはざるを得ず。若し其目的京都を掃清するにあらば、かばかりの兵力にて仕遂ぐべくもあらず、又自家の護衛としては多きに過ぎたり」と回想し、無関係を主張していますが、松浦玲氏・石井孝氏の研究によれば、慶喜は江戸の幕府幹部とともに小笠原の率兵上洛を承認しており、一時は慶喜自身もともに上京するとみられていたが、病気だという理由で乗船しなかったそうです。なお、慶喜は小笠原と姉小路の関係を否定はしていません。 参考:『昔夢会筆記』・『徳川慶喜公伝』2・『徳川慶喜 将軍家の明治維新』(2001.7.4) 【江】文久3年5月19日、水戸藩主徳川慶篤(慶喜の実兄)は、朝廷に将軍目代の辞表を提出しました。 慶篤は3月24日に将軍目代として攘夷を成功させるようにとの沙汰を受けて(こちら) 、翌25日に京都を発足(こちら)、4月11日に江戸に到着していました(こちら)。しかし、5月10日の攘夷期限を前に、幕府は償金を交付してしまい、非才で天皇の考えを貫徹できないとして辞表を提出したそうです。 関連:■「水戸藩かけあし事件簿」「水戸藩日誌文久3」 参考:『徳川慶喜公伝』(2004.7.6) 関連:■開国開城:「生麦事件」「幕府の生麦償金交付と老中格小笠原長行の率兵上京」 ■テーマ別文久3年:「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「第2次将軍東帰問題と小笠原長行の率兵上京」 ■長州藩の攘夷戦争 【京】文久3年5月19日、二条城に登城する吉川監物に随行した長州藩士小幡彦七は、下関における攘夷の状況を陳述しました。 参考:『修訂防長回天史(三下)』p416(2004.7.13) |
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