7月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 HP内検索 HPトップ
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■御所九門・六門警備体制 【京】文久3年5月27日、朝廷は、朔平門外における姉小路公知殺害を受けて、会津・所司代(長岡)・中津・米沢・芸州・小松藩に、御所内講六門の警備を命じました。(表1) また、各藩が「仮番所」を建てて藩士を詰めさせるよう求めました。 表1:御所内講六門警備体制
<ヒロ> 5月21日には、諸藩(土佐・肥後・長州・仙台・水戸・備前・薩摩・因幡・阿波)に外講九門外警備が命じられており、これに続く御所警衛強化になります。会津藩が所司代と並んで警備を任された西側三門のうち唐門は別名公家門、公家が出入りする、御所六門・九門中の最重要門になります。 実は、この日の決定には、会津藩の働きかけがありました。 ●守護職会津藩の御所警備主導権確立工作 文久3年5月14日、御所近隣で火災が発生した際、会津藩は急遽兵を出し、容保自ら三隊その他を率いて御所の警備につきました(兵は築地内まで入ったようです)。翌15日、朝廷は、諸藩に対し、御所出火時の御所外講九門・内講六門の警備を定めました。内講六門については、守護職・所司代に西門(公家の出入りする唐門を含む)の警備が命じられました(残りは芸州・米沢・中津)が、九門外警備は土佐・肥後・長州・仙台・水戸・備前・薩摩・因幡・阿波に命じられ、会津は含まれていませんでした(こちら)。 次いで5月20日夜に朔平門外における姉小路公知暗殺が起ると、ショックを受けた朝廷は、翌21日、備前・薩摩・因幡・水戸・仙台・長州・肥後・土佐・阿波に外講九門外の警備(夕方以降の通行者確認を含む)を命じました。実は、会津は姉小路暗殺の報を受けるとすぐに九門の独占警備を申し出ていましたが、「衆人疑念ヲ懐候会津」ゆえ、朝廷は一門も任せませんでした。しかし、会津は九門警備を嘆願し続け、朝廷は、やむなく水戸藩の受け持つ蛤門の警備を会津藩に振替えました。(こちら) 九門外警備の一角を担うことに成功した会津は、それで満足することなく、次に九門内、即ち御所及び・築地(内裏及び宮家・公卿の居住地)の警備を、鷹司関白・中川宮・議奏等に嘆願しました。
伝奏野宮定功の中山忠能への説明によれば、会津は特に唐門警備担当に相当こだわったようで、朝廷も仕方なく要求を受け入れることになった(「夫(=外構九門のうち蛤門の警備を任されたこと)ニテハ不足之由今一介所唐門御成トモ勤度旨頗申立不及是非次第」)が、今度は諸藩が不満をいだいため、やむなく他の五藩にも警備を命じたようです。 九門外警備担当藩は御所の中(内裏・築地)は警備対象外なのに対し、六門警備担当の諸藩は御所九門内の築地・内裏を警備対象とし、しかも番所を建てて警備にあたるという点に違いがあります。特に、会津・所司代は唐門(公家門)を担当していますから、公家の出入りを確認できる立場になりました。 (気になるのが、六門警備の担当箇所のうち、他藩は「〜門前」(つまり門外の警備)なのに、会津・所司代担当は「〜門」となっており、「前」がないことです。この違いに意味があるとすれば、西側三門については、門外・門内双方の警備ということになると思われますが、そのへんをはっきり示した史料が探せません。どうなんでしょう??) 参考:御所外講九門外警備担当藩
参考:『七年史』一p306-307、『孝明天皇紀』巻162 p4-6、『維新史料綱要』四、『幕末政治と倒幕運動』p120-124(2001.7.12、2002.7.12, 2012.12.26) 関連:■豆知識:御所の九門・六門の模式図)■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「親兵設置と御所九門・六門警備」■「守護職/会津」「事件簿文久3年」 ■朔平門外の変 【京】文久3年5月27日、伝奏坊城は容保らに姉小路暗殺犯の糾問を命じました。容保はこの日微熱があって病臥していましたが、家臣が、朝廷がたとえ重大事だと考えたとしても訴獄は町奉行の任務であり守護職のすべきことではないと口々にいうので、これを容れて糾問を辞しました。 参考:『七年史』(2001.7.12) 関連:■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」 ■久光召命 【京】文久3年5月27日夜、近衛前関白父子は、久光に書を認め、上京・朝廷への尽力による姉小路公知暗殺の「疑惑氷解」を求めました。 近衛前関白父子は、田中新兵衛は暗殺犯に仕立てられたと見込んでいました(「全薩州ヲ忌嫌フ者之計略よりして、薩二相決候」)。 前夜の書簡(こちら)に続いての上京要請になります。 参考:『玉里島津家史料』二p286(2012/4/19) 関連:■テーマ別文久3年:「朔平門外の変(姉小路公知暗殺)」「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変」 ■「薩摩藩」「かけあし事件簿文久3年」 ■越前藩挙藩上京計画 【京】文久3年5月27日、坂本龍馬は越前藩用人中根雪江を訪ね、春嶽の上京を促しました。 この日、越前藩を訪ねた坂本に用人の中根雪江が応対して時事を談じたところ、坂本は「過般橋水ニ候鎖攘の命を奉して東下せられけれと事行はれす此節すでに引籠り居らるる由春岳公の御意見ハ最早行はるへきの機なり就而は此際速ニ御上京尽力ある様」等々のべたそうです。 参考:『続再夢紀事』ニp39(2004.7.15) 関連:■テーマ別文久3「越前藩挙藩上京計画」■「春嶽/越前藩」「かけあし事件簿文久3年」 ■長州藩の攘夷戦争 【長】文久3年5月27日、長州藩士久坂玄瑞・三戸詮蔵・楢崎弥八郎は、オランダ船砲撃顛末を上申するため、京都へ向いました。 参考:『修訂防長回天史三下』p419(2004.7.13) 関連:■開国開城:「賀茂・石清水行幸と長州藩の攘夷戦争」■テーマ別:「長州藩の攘夷戦争」■「幕末長州藩」「主要事件2」文久3(1863 |
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