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文久2年6月16日(1862年7月12日)
【江】島津久光、老中脇坂に勅諚尊奉を遊説

■勅使大原東下-慶喜と春嶽の登用
【江】文久3年6月16日、勅使に随従して東下中の島津久光は、親戚筋の老中脇坂安宅に対して書簡を送り、勅諚尊奉を説きました

その大意は
<一橋・越前の登用は速やかに決行すべきであるのに、後見・大老という名目に拘泥して逡巡するのは、優柔不断というべきである。今日非常の際、先例・典故など問うべきときではない。また、将軍家上洛の事は、長州からしきりに慫慂するそうだが(こちら)、まだ急速を要しない。春嶽が登用されれば、秋頃に上京を命じ、外国の処置・国是の議論を言上させるべきである>
というものでした。

<ヒロ>
幕府は、勅使東下より先、先手をうって、5月7日、春嶽を幕政参与に任じ(こちら)、同月9日、17歳になった将軍家茂にはもう後見は必要ないとの理由で田安慶順の後見職を免じていました(こちら)。勅使に対しても、これらを理由として慶喜の後見職・春嶽の大老登用の勅諚を請けようとしませんでした。このとき、大原は、後見・大老の名称にはこだわらず、実質が行われればどうにでもなると示唆したといいます(こちら)。この日の久光の書簡もこの線に沿ったものになると思います。

関連:■「開国開城」「文2:勅使&島津久光東下との幕政改革」■テーマ別文久2年:「一橋慶喜・松平春嶽の登用問題と勅使大原重徳東下」「将軍上洛問題薩摩藩日誌文久2  
参考:『徳川慶喜公伝』2(2002.9.19, 7.12)

【江】文久3年6月16日夕、同月14日以来登城停止中の松平春嶽*1を老中の使者・大目付大久保一翁(当時忠寛)が訪ね、明日、和宮宛の宸翰(天皇の手紙)の写しを見せるので登城するようにと伝えました。

*1春嶽は14日以降、暑気あたりを理由に登城を停止していましたが、実際は、勅諚(特に慶喜の後見職登用)に対する幕閣の抵抗に不満を感じてのことだったようで、越前藩邸では春嶽の進退が評議されていました(こちら)

<ヒロ>
幕府が春嶽の登城を促したのは、6月18日には勅使大原重徳が回答を聞くために登城してきますので、17日の評議には是非参加してもらいたかったというのもあると思います。幕府は、勅諚のうち、春嶽の大老登用については、既に幕政参与に任じてており、実質は大老と同じであるとして拒否していました。春嶽が加わらない評議の結果を勅使に回答するわけにはいかないんじゃないでしょうか。越前藩が春嶽の進退を評議していることまでは察していたかどうかわかりませんが・・・。今さら春嶽に幕政参与を辞任されると、勅使に対して言い訳がたたなくなり、非常にマズイことになることは確かですよね。春嶽の幕政参与は将軍の直命でもあるので、その点でもマズイですし。

関連:■越前藩日誌文久2 
参考:『再夢紀事・丁卯筆記』(2002.9.19、7.12)

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