8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月5日(1863.8.18):
【京】攘夷親征:近衛忠煕前関白・忠房父子、二条斉敬右大臣、徳大寺公純内大臣
連署して、攘夷親征可否は諸大名を召して衆議をこらすようにと上書
【京】因幡藩主池田慶徳、宮中に諸藩親兵・有志の武学寮建設を建議(三条実美要請)
薩英戦争(3)薩摩藩、交戦状況を朝廷に具申/
【越】挙藩上京(13)岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)、
熊本・鹿児島に向けて出立

■久光召命&大和行幸
【京】文久3年7月5日、公武合体派の国事御用掛の近衛忠煕前関白・二条斉敬右大臣・徳大寺公純内大臣・近衛忠房権大将の4名は、連署して、攘夷親征は重大事なのでただちに諸大名を召して衆議をこらすようにと上書しました

意見書の大意は<この間尋ねられた主上の御親征のことは何とも了見に及びがたい。元来攘夷の事は皇国の御大事で容易ならざる事なので、外様諸侯をも召し出され、意見を御聞取りの上決定すべきである。もし軽率に事を挙げれば忽ち外夷は侵入するだろう。そうなれば数少ない公家堂上で支えることはできない。再び挽回できない大患を惹起することだろう>等々というものだったようです。

<ヒロ>
近衛前関白はもちろん、孝明天皇も実は攘夷親征には反対の立場でした((こちら)。意見書中の「外様諸侯」には、もちろん、彼らが待ち望む薩摩藩(国父島津久光)が想定されているはずです。(孝明天皇は、5月、近衛前関白・中川宮を介して、久光へ上京して「姦人掃除」せよとの密勅を下していましたが、このとき、英国艦隊が鹿児島に来航する可能性が高まっており、久光は動くことができませんでした。そして、6月28日にはとうとう英国艦隊が来航。7月2日には薩英戦争が勃発しており、久光はますます動けない状況にあります)。 

関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別: 「島津久光召命」「大和行幸と禁門の政変
参考:『続再夢紀事』ニ、『維新史』三、『維新史料綱要』五p488(2004.9.21)

【京】文久3年7月5日、因幡藩主池田慶徳は、御所内における親兵・有志のための武学寮創建を建議しました。

慶徳(6月27日着京)が7月3日に参内した折、京都守衛係(親兵統括掛)の三条実美から、宮中に撃剣場を創建の可否について内々の相談談がありました(こちら)。慶徳は、撃剣場を、武学を興して、親兵他有志の寄宿・鍛錬の場としようと思い立ち、翌4日、留守居阿部清一郎を通して、実家・水戸藩の原市之進に藩主代理・松平昭訓(余四磨)の意向をきかせました。そうしたところ、<武道場建設は問題ないが剣客を養うのは如何なものか。また建白者となるのは支障がありお断りする。三条中納言から当方家来に同様のお尋ねがあったが、そのように返答した>との返答がありました。

この日、伝奏から撃剣場創建の可否について催促があり、慶徳は、次のような上書を提出しました。
先日参内の折に内意をうかがった撃剣場の件は、熟考したところ、利害得失が少なからぬことゆえ、なお深くお考えの上仰せ出されるべきだと存じる。
諸家より差し出した親兵も多人数上京しているが、「武学」を造営し、そこに寄宿寮を作り、上京の「有志之徒」のうち、主人持ちは主人へも沙汰の上で、寄宿を命じてお養いになれば、「有志之徒」も帰宿する場を得て、その差し支えもないかと存じる。
さらに利害を講究の上、仰せ出されるようにされたい。

<ヒロ>
御所内の親兵宿舎・調練場創建は、2月23日、尊攘急進派の国事寄人が関白に差し出した上書に含まれています(こちら)。上書には、その他、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、草莽のうち有為な者も召し出ささせること、親兵は御所の守衛を職掌とし、その他の警衛は従来通り諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、が含まれています。このうち、石高に応じた親兵差出や公卿による統括は、既に実現していました。この時点で、御所の守衛は親兵ではなく諸藩に命じられていますが、これについても工作が進行中です(7月20日に一部実現)。

それにしても、あの水戸尊攘激派・ばりばりの破約攘夷派の巣窟、在京水戸藩が、問題を感じて断ったというのが興味深いです。

関連:■テーマ別「攘夷親征/大和行幸と禁門の政変」「親兵設置&御所九門・六門警備」 「因幡藩文久3後半」 ■開国開城「攘夷親征/大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」
参考:『贈従一位池田慶徳候御伝記』二p398(2012.12.23)

■薩英戦争
文久3年7月5日、薩摩藩は英国との交戦状況を朝廷に報告しました。

参考:『七年史』一(2004.9.20)

■越前藩挙藩上京計画(越・薩・肥の政変計画)
【越】文久3年7月5日、越前藩士岡部豊後・酒井十之丞・三岡八郎(由利公正)は使命を帯びて熊本・鹿児島に向けて出立しました

熊本・鹿児島行きの目的は5月24日の横井小楠の書簡にあるように、藩議を説明して上京を促すためでした(こちら

薩摩藩国父島津久光・薩摩藩主島津茂久宛の前藩主松平春嶽・藩主松平茂昭連署の書簡は以下の通り。

「・・・京師の事情近来に至り候ては追々切迫相成り、其上将軍家にも俄然御東下、之に加え赤間の騒乱と申し、別て今後の形勢結局如何相運び申すべき哉。関情の至り存じ候。実に皇国危急存亡の境と日夜寝食安じ難く憂悩罷り在り候。就夫ては往々の微衷家老共初へ委細申し含み御相談及び候間、篤と御聴き取り、充分御賢慮の趣腹蔵無く仰せ聞かせ下され候様、付希の事に御座候・・・」

<ヒロ>
7月2日には薩英戦争が勃発しており、久光は動けない状況にあるわけですが、この時代、その情報は越前藩にはまだ届いていませんでした・・・。

参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.20)
関連: ■テーマ別文久2「国是決定:破約攘夷奉勅VS開国上奏」、「横井小楠」■テーマ別文久3「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
【江】若年寄有馬道純(丸岡藩主)、老中に任命される(『綱要』四)

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