8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月6日(1863.8.19):
【京】大和行幸(3)激派公卿、幕府への攘夷委任不可・親征布告を建言

■大和行幸
【京】文久3年7月6日、急進派公卿の滋野井実在・東園基敬・壬生基修・四條・錦小路頼徳・沢宣嘉(国事寄人)が連署して、攘夷実行を「因循」な幕府に委任することの不可を述べ、攘夷親征を天下に布告して人心の一致を図るよう建言しました

建白書の概容は以下の通り(箇条書き&要約by管理人)
方今、時勢は益々切迫している。既に長州にて兵端を開き、摂海へも外国船が時々現れており、いつ「大挙襲来」するか計り難い時節である。
ところが、幕府は、攘夷の勅命を請けておきながら、「兎角因循仕明燎(ママ)之処置」がなく、とても「幕府えのみ御命令にては決て叡慮貫徹之期」はない。
(天皇が)断然「聖策」を定められて、「御親征之儀天下え布告」すれば、「士民一心戮力、速掃醜夷奏太平候義」は数年のうちに実現すると存じる。
ただし、御親征といっても、即今御輿を進めるというのではない。先ず御親征の件を天下に布告すれば、人心が一定・鎮静するだろう。さもなければ、天下の人心は「四分五裂之勢判然」とみえる。御親征の布告がなければ、「有志之輩」は「悲憤」に堪えず、「騒擾紛乱如何成行哉」計り難く、何分、「急速先布告」を願いあげる。

●おさらい
同年 6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化しました(こちら)。 しかし、孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣らも反対でしたが(こちら)。 7月5日には、近衛前関白ら公武合体派が、攘夷親征に関して外様藩を含む諸大名を召して衆議をこらすようにと上書したばかりでした(こちら)

関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別: 「大和行幸と禁門の政変
参考:『維新史』三、『贈従一位池田慶徳公御伝記』一p402(2004.9.21、2012.12.23)

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