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文久3年7月3日(1863.8.16) 

【京】因幡藩主池田慶徳参内。孝明天皇に謁す。
三条実美より宮中に撃剣場創建の相談あり

■因幡藩の動き
【京】文久3年7月3日、参内した因幡藩主池田慶徳に、国事諮問の沙汰が下りました。

慶徳は、6月27日、京都守衛のために上京しました、7月3日に参内し、孝明天皇に謁した後、伝奏から、国事について諮問された際は腹蔵なく答申せよとの沙汰が伝えられました。

当月より三カ月の守衛と心得ていたが、他に御用があり、早々上京せよと先月命じたところ、速やかに上京になり、御満足である。大樹帰府後、追々時勢が切迫し、御心を悩まされている。いよいよ「誠忠」に務めよ。また「国事」について下問の事柄もあろうが、その際は腹蔵なき存意を委細言上せよ。

また、京都守衛掛の三条実美から、宮中における撃剣場創建の可否について内話がありました。

<ヒロ>
●撃剣場創建に係る尊攘急進派の狙い
三条は、慶徳に撃剣場創建の上書を出させ、それを朝議にあげることを考えていたようです。実は、これより先、水戸藩に同様の打診をしたものの、色よい返答が得られず、建白を断られていました。

なぜ、宮中に撃剣場なのか。尊攘急進派は親兵の職掌を御所守衛だと考えていましたが、5月の姉小路公知暗殺を受けた朝命では、御所(九門・六門)の守衛は守護職・所司代を含む諸藩に命じられました。御所内に親兵の撃剣場を設ければ、武装した親兵(諸藩の急進派から成る)が御所内を往来することになり、急進派が敵視する守護職・会津藩へのプレッシャーにもなるはずです。門閥公卿への圧力にもなりえます。諸藩の急進派と急進派公卿との往来・連絡も容易になりますし、御所に何か異変が生じたとき、親兵総督たる三条の指示で武装兵がすぐさまかけつけることが可能になります。

それにしても、なぜ、このタイミングなのか。実は、この頃、三条は、真木和泉経由で越前藩の挙藩上京計画を察知しており、その対抗策として出てきたのではないかと想像しています。真木の日記によれば、真木は肥後藩士宮部鼎蔵から越前藩の計画を知ったようで、6月26日には三条と面会し、この件を議しています。そして7月1日に、三条は真木和泉に親兵番所等を相談し、翌2日には、三条邸で真木・久坂玄瑞・轟武兵衛・宮部鼎蔵が会し「越を拒之策を献」じています。もしかすると、撃剣場創建案も、真木から出たのではないでしょうか?

●おさらい:親兵設置
御所(皇居・公家居住地)の警護は、従来、所司代の主導下、近畿諸藩が行ってきました。しかし、文久2年になって、諸藩−特に長州藩−の中から親兵を徴するという議論が起り、10月5日、薩長土の有志が親兵設置を建議しました(こちら)。これを受けた朝廷では、11月の勅使東下の際、諸藩から選抜した者を朝廷の親兵として京都守護にあたらせるよう評議せよという沙汰を伝えました(こちら)。幕府は、諸藩に京都守護の主導権を奪われることや朝廷の兵権回復を恐れ、寄せ集めとなる親兵は実効がないと、12月5日、親兵設置は請けませんでした(こちら)。もちろん、京都守護職に命ぜられ、一藩をもって親兵として京都守護にあたる決意の会津藩も、親兵設置には猛反対でした。勅使は親兵設置要求を貫徹せぬまま江戸を出立しました(こちら)

その後、将軍上洛を前に、親兵設置の議論はますます高まり、文久3年2月22日(21日?)、先発上京していた後見職一橋慶喜は、機先を制する形で、親兵は、守護職の指揮下、畿内・近国の諸侯(譜代大名です)に半年交代で勤めさせたいと建議しました。親兵を朝廷に付属させるのではなく、守護職に付属させることにより、幕府がコントロールしようという意図でしたが、朝廷は受け入れませんでした(こちら)。一方、急進派公卿は、23日の諮問に対し、親兵は諸藩から石高に応じて出させること、公卿が統帥すべきこと、御所内に宿舎を設けて日々鍛錬させること、草莽のうち有為な者も召し出させること、親兵は御所の守衛を職掌とし、その他の警衛は従来通り諸藩が行うこと、親兵の手当・食料・武備は諸藩に賦課すること、を上言しました(こちら)

2月27日、慶喜と総裁職松平春嶽は、参内し、国事掛と議論をしましたが結着せず、終には親兵設置の可否は諸侯に諮問して「天下の公論」によって定めることを具申し、承諾を得ました。ところが、その夜、朝廷は、突然、諸侯に対し、帰国時には朝廷警衛のために人数を出すよう発令しました。急進派の主導で出されたもので、実質的な親兵設置の沙汰でした(こちら)。次いで28日、長州藩が、親兵に藩士(一万石あたり一人:合計37名)を献じたいと請願し(こちら)、3月6日、朝廷は、幕府の反対を押し切る形で、長州藩の請願を許しました。

将軍は3月4日に上洛しましたが、幕府は、未だ親兵設置を請けていませんでした。14日、ついに朝廷は、「名目は御守衛でもよいので、10万石の大名から人数をさしだすよう、申達すべし」と親兵設置の命を下しました。これを請け、幕府は、18日、十万石以上の大名に対し、「一万石に一人の割合で、健康・行状・武勇の秀でた者を選び、御守衛として京都に差出し、その取締は各主人で厚く世話し、一年をもって交替するように」と通達しました(会津藩は、全藩が親兵であるという理由で、特別に藩士を献じることはありませんでした)。4月3日には、親長州の急進派公卿・三条実美が京都御守衛御用掛に任命され、御守衛兵の長となりました。

参考:『贈従一位池田慶徳公御伝記』一p395, 398、『真木和泉守遺文』p599(2012.12.23、2013.1.12)
関連:■テーマ別「親兵設置&御所九門・六門警備」因幡藩文久3後半

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