8月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国〜開城 HP内検索 HPトップ
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■越前藩の挙藩上京&大和行幸/攘夷親征 【京】文久3年7月4日、 越前藩監察村田氏寿は、近衛忠煕前関白に挙藩上京の藩論を説明し、「御用」があればいつでも上京する決意があると述べました。忠煕は、攘夷親征/行幸は叡慮ではなく、自分や二条右大臣・徳大寺内大臣も反対であり、鷹司関白も同心なのだが、「暴激之輩」(=急進派)のせいで存意が通らないと朝廷事情を語るとともに、藩論には同意するが、上京は時機を待ち、今は「傍観」するよう諭しました。
この日のうちに、村田は京を発って福井に向かいました。京都の情勢をみるに、未だ春嶽父子の上京すべきときではないこと、また、近衛前関白らの意見書が一両日中に決定されれば諸侯を召し出すこともあるだろうことから、とにかく急いで上京すべきではないとの見込みを具申するためでした。 <ヒロ> この日、村田が近衛前関白を訪ねたのは、7月2日に、薩摩藩の吉井幸輔・奈良原繁が、村田に対し、近衛前関白らが天皇に攘夷親征(大和行幸)反対を上申する計画があり、同意見の天皇も賛成するだろうという見込みを伝え、それでもなお天皇の決定に反対する「暴激之徒」は朝敵として討伐すべきだと主張したことが影響していると思います。越前藩としては、挙藩上京の目的は、あくまで(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加・幕臣以外に列藩からの諸有司選抜、にあり、村田が在京薩摩藩や肥後藩に連携を求めたのも、そのためでした。在京薩摩・肥後藩からは前向きな反応を得たので、両藩に同時上京を協力要請をするために、越前藩は家老岡部豊後らを鹿児島・熊本に向かわせました。しかし、春嶽父子らが藩兵を率いて上京するにあたっては、少なくとも天皇や朝廷上層部の理解・支持は不可欠です。この時点で、急進派公卿の追放/政変は越前藩の視野には入っていませんが、吉井・奈良原らから朝廷の内情を聞かされたこともあり、自ら、状況を確認しようと近衛前関白のもとに赴いたのではないかと思います。また、吉井・奈良原から、越前藩上京について虚説が流れていることを知り、いらぬ誤解を招かぬためにも、近衛前関白に直接説明する必要を感じたということもありそうです。 近衛前関白の話では、二条斉敬右大臣・徳大寺内大臣は自分同様親征に反対だが、中川宮は親征を可としていること、長州関白といわれる鷹司関白も内心は親征に反対であるというあたりは面白いと思います。 ●ミニおさらい:攘夷親征 6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化していました(こちら)。 関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別: 「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」「大和行幸と禁門の政変」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」 参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.20) ■一橋慶喜の後見職辞任問題 【京】文久3年7月4日、 朝廷は、慶喜の後見職辞表を再び却下し、即時攘夷の実現への粉骨を求めました。 慶喜への沙汰の概容は以下の通り(箇条書き&要約by管理人)
●おさらい:慶喜の辞任問題 〇慶喜、一度目の辞表 慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て帰府していました。最初の辞表を提出したのは、生麦事件の償金支払い後の5月14日。横浜鎖港の勅旨を貫徹する見込みがないとの理由でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下しました(こちら)。 〇慶喜、二度目・三度目の辞表 慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>と、二度目の辞表を提出しました(こちら)。同月15日には将軍が着府しましたが、24日には、さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分について幕府が自分の意見を容れず、後見職は名ばかりであるとして、攘夷期限の有無に関係なく辞任を願いでていました(こちら)。 関連:■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「慶喜辞任問題」 参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.10.1) |
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