8月の「今日」 幕末日誌文久3 テーマ別文久3 事件:開国〜開城 HP内検索  HPトップ

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文久3年7月4日(1863.8.17)
【京】近衛忠煕前関白、越前藩の挙藩上京論に同意するが、時機を待ち「傍観」を指示
(親征は叡慮ではく、近衛前関白・二条右大臣・徳大寺内大臣・鷹司関白も親征反対、中川宮は異見)
村田氏寿、上京猶予を具申するため、福井向けて出京
【京】朝廷、一橋慶喜の後見職辞任を却下・即時攘夷を求める

■越前藩の挙藩上京&大和行幸/攘夷親征
【京】文久3年7月4日、 越前藩監察村田氏寿は、近衛忠煕前関白に挙藩上京の藩論を説明し、「御用」があればいつでも上京する決意があると述べました。忠煕は、攘夷親征/行幸は叡慮ではなく、自分や二条右大臣・徳大寺内大臣も反対であり、鷹司関白も同心なのだが、「暴激之輩」(=急進派)のせいで存意が通らないと朝廷事情を語るとともに、藩論には同意するが、上京は時機を待ち、今は「傍観」するよう諭しました。

村田 春嶽が当春職務行き届かず辞職・帰国しましたが、以来、春嶽父子はもちろん家臣に至るまで「幕府の弊習を去り皇朝の御為め尽力せんとの素志」は少しも変わるところがありません。ですから、御用があれば、いつでも上京する決心です(等々、藩議の要領を述べる)
近衛 もっとも至極の意見で頼もしく存ずる。拙者は公武合体にしたい存意で配慮してきたが、最近の情勢は到底存意のごとく実行されず、先日大樹殿(=将軍家茂)が東帰しようとされたときも、拙者共はこれを留めようとし、国事掛の輩は東帰させるべきだと申した。拙者共が留めようとしたのは、公武合体を望むためであり、国事掛が東帰させようとしたのは、幕府を遠ざけようとする為なのだが、幕臣はその意を悟らず、留めようとするのは大樹公を困らせるものと考えて、しきりに東帰を申し出、ついに出立され、いよいよ困難な世態となった(と嘆いた)
村田 公武合体の尊慮は誠に有難き次第ですが、大樹公はお若く、閣老は人材を得ず、(破約)攘夷についても、この上切迫に命じられても、思召しのようにはいかないでしょう。折角命じられた事を実行できなければ、幕府はますます罪を重ね、終に公武合体は望めなくなるでしょう。近々に兼て御依頼の諸侯を上京させ、第一に内地の一致を図った上で外国の事も談判に及べば功を奏すでしょう
近衛 最近、拙者共の存意は少しも実行されず、このほど攘夷親征を仰せ出されるとの事である。拙者は同意ではないが、やはり行幸されるとの事なので、ことのほか案じ、二条・徳大寺・宮(=中川宮)らと集まり相談してきた。宮は御親征も可とされ、いよいよ親征となれば先鋒の任に当たると申されており(注1)、いささか意見を異にされるので、いたし方なく二条・徳大寺と共に今日か明日かのうちに、書面をもって関白へ意見を申し立てるつもりであるもっとも関白の意見は拙者と同様ではあるが、国事掛の輩は頻りに関白に迫るので、殿下始め大臣方は(親征却下を)決心されない(と内情を述べ、鷹司関白に提出する極密の書面(注2)を村田に見せた)。

注1)中川宮は、6月6日、上書して攘夷先鋒を願い出ている(こちら)
注2)近衛前関白ら連署の鷹司関白への意見書の大意は<この間尋ねられた主上の御親征のことは何とも了見に及びがたい。元来攘夷の事は皇国の御大事で容易ならざる事なので、外様諸侯をも召し出され、意見を御聞取りの上決定すべきである。もし軽率に事を挙げれば忽ち外夷は侵入するだろう。そうなれば数少ない公家堂上で支えることはできない。再び挽回できない大患を惹起することだろう>等々というもの。7月5日に提出(こちら)
近衛 主上の叡慮も全くこの通りなのだが、暴激の輩は叡慮を遮っているのだ
村田 叡慮がすでにこのようである上、殿下らが叡慮を補佐されているのは皇国の大幸であるのに、(急進派公卿が)強いて私見を主張し、(叡慮を)遮るのは誠にもったいないことです。(今後も急進派公卿が叡慮を)いよいよ遮るとあれば、皇国はもはやいかんともなしがたき状態に至るでしょう。既に申し上げましたように、春嶽父子は今こそ皇国の為に奉公すべき時だとの覚悟ですので、いつでも上京いたしますが、万一、事が軽挙に渉り、不都合ともなれば、却って恐れ入る次第ですので、この上、なお、御指揮をお待ちいたします
近衛 春嶽殿らの心底は感じ入った。しかし事を急いでは却って仕損じるだろう。故に、今は成り行きを傍観すべきである。拙者の一了見で指図すべきではないが、同志の輩共と熟談しておき、時機到来の節は必ず尽力周旋を頼むだろう。もっとも国事掛の輩が御親征を主張するのは、いよいよ布告となれば攘夷が聖慮であることが四方に響き、諸般勤王の志ある輩は心を決して応ずるだろうとの見込みなのだ
(口語訳、()内、下線by管理人。素人なので資料として使わないでね。

この日のうちに、村田は京を発って福井に向かいました。京都の情勢をみるに、未だ春嶽父子の上京すべきときではないこと、また、近衛前関白らの意見書が一両日中に決定されれば諸侯を召し出すこともあるだろうことから、とにかく急いで上京すべきではないとの見込みを具申するためでした

<ヒロ>
この日、村田が近衛前関白を訪ねたのは、7月2日に、薩摩藩の吉井幸輔・奈良原繁が、村田に対し、近衛前関白らが天皇に攘夷親征(大和行幸)反対を上申する計画があり、同意見の天皇も賛成するだろうという見込みを伝え、それでもなお天皇の決定に反対する「暴激之徒」は朝敵として討伐すべきだと主張したことが影響していると思います。越前藩としては、挙藩上京の目的は、あくまで(1)外国公使を交えた朝幕要人の京都会議による「至当条理」に帰する開国鎖国の国是決定、(2)朝廷の裁断の権・賢明諸侯の大政参加・幕臣以外に列藩からの諸有司選抜、にあり、村田が在京薩摩藩や肥後藩に連携を求めたのも、そのためでした。在京薩摩・肥後藩からは前向きな反応を得たので、両藩に同時上京を協力要請をするために、越前藩は家老岡部豊後らを鹿児島・熊本に向かわせました。しかし、春嶽父子らが藩兵を率いて上京するにあたっては、少なくとも天皇や朝廷上層部の理解・支持は不可欠です。この時点で、急進派公卿の追放/政変は越前藩の視野には入っていませんが、吉井・奈良原らから朝廷の内情を聞かされたこともあり、自ら、状況を確認しようと近衛前関白のもとに赴いたのではないかと思います。また、吉井・奈良原から、越前藩上京について虚説が流れていることを知り、いらぬ誤解を招かぬためにも、近衛前関白に直接説明する必要を感じたということもありそうです。

近衛前関白の話では、二条斉敬右大臣・徳大寺内大臣は自分同様親征に反対だが、中川宮は親征を可としていること、長州関白といわれる鷹司関白も内心は親征に反対であるというあたりは面白いと思います。

●ミニおさらい:攘夷親征
6月9日に、将軍家茂が東帰のために幕兵とともに退京・下坂し(こちら)、13日に大坂を出港しました(こちら)。そして、将軍と入れ替わるように、真木和泉が入京して、攘夷親征論は一気に具体化していました(こちら)。

関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別: 「越前藩の挙藩上京(クーデター)計画」「大和行幸と禁門の政変」■「春嶽/越前藩」「事件簿文久3年」
参考:『続再夢紀事』ニ(2004.9.20)

■一橋慶喜の後見職辞任問題
【京】文久3年7月4日、 朝廷は、慶喜の後見職辞表を再び却下し、即時攘夷の実現への粉骨を求めました

慶喜への沙汰の概容は以下の通り(箇条書き&要約by管理人)
言上の趣は叡聞に達し、余儀なき筋だとは思召しだが、攘夷については先年来叡慮は一定しておられる。たとえ皇国が焦土となるとも厭わず、醜夷と応戦し、祖宗への御申訳を立てたいとの御赤心より思召され、天地神妙へ御祈誓の上にて仰出された事である。
ところが、武門の職掌、速かに策を施し、宸慮を安んじ奉るべきところ、幕府は(攘夷を)度々御請は致すが(一向に実行に移さないので)、その決心は如何と思召され、期限を以て仰下された次第である。
今、内政が整わず、人心が一致せずという理由で(攘夷実行の)猶予に及ぶようでは、畢竟天下動乱の端を開き、容易ならざる形勢にいたるだろう。皇国の為粉骨して、大勢を挽回すべきよう丹誠せよ。

●おさらい:慶喜の辞任問題
〇慶喜、一度目の辞表
慶喜は4月22日、「鎖港攘夷の実効」をあげることを名目として東下の勅許を得て帰府していました。最初の辞表を提出したのは、生麦事件の償金支払い後の5月14日。横浜鎖港の勅旨を貫徹する見込みがないとの理由でした(こちら)が、朝廷は6月2日、<後見職を元のように務めて将軍とともに攘夷に尽力するように>と辞任を却下しました(こちら)

〇慶喜、二度目・三度目の辞表
慶喜は、これに対し、6月13日、重ねて即時攘夷の困難さを伝え、<期限があっては攘夷をお請けできないので辞職を願いたい。内政を整えた上で攘夷に取り組みたいとの願いが聞き届けられれば粉骨砕身したい>と、二度目の辞表を提出しました(こちら)。同月15日には将軍が着府しましたが、24日には、さらに、生麦事件賠償問題や下関外国船砲撃事件での薩長処分について幕府が自分の意見を容れず、後見職は名ばかりであるとして、攘夷期限の有無に関係なく辞任を願いでていました(こちら)

関連:■テーマ別文久3年:「攘夷期限」「生麦事件賠償問題と第1次将軍東帰問題」「慶喜辞任問題
参考:『徳川慶喜公伝』2(2004.10.1)

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