8月の「今日の幕末」 幕末日誌文久3) 事件:開国:開城 HP内検索 HPトップ
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■攘夷親征/大和行幸 【京】文久3年7月7日、召されて参内した因幡藩主池田慶徳は、議奏・伝奏・国事掛列座にて、親征布告、撃剣場創建、幕府への尋問、列藩有志の国事掛任命の可否について下問されました。慶徳は親征に書面による返答を願い出て退出しました。 (慶徳(6月27日に入京)は、入京後の初参内時(7月3日)、伝奏より国事諮問の沙汰を受取っていました。これが初の諮問となります)。 ●おさらい ○攘夷親征の布告 親征の布告については、前6日、滋野井中将ら尊攘急進派が建言していますした(こちら)攘夷親征論は、6月に真木和泉が入京して意向、尊攘急進派の間では一気に具体化しました(こちら)。 ところが、孝明天皇は攘夷親征を好まず、近衛忠煕前関白父子・二条斉敬右大臣・徳大寺内大臣らも反対でした(こちら)。 7月5日には、近衛前関白らが諸大名を召して衆議をこらすようにと上書したばかりでした(こちら)。 ○宮中撃剣場創建 名目上は、7月5日の慶徳の建議を受けた下問になります。慶徳は7月3日に参内した際、京都守衛掛の三条実美より、宮中における撃剣場創建の内談がありました。翌4日、慶徳が実家の水戸藩に相談したところ、<武場創建は問題ないが剣客の寄宿はどうか。また、建白人となることは支障がありお断りする。三条中納言より当方家来に同様のお尋ねがあったが右のように返答した>と色よい反応がありませんでした。しかし、5日、伝奏から催促があり、単独で武学寮創建の建白書を提出していました(こちら)。 ちなみに、御所内の親兵宿舎・調練場創建は、2月23日、尊攘急進派の国事寄人が関白に差し出した上書に含まれています(こちら)。 ○幕府への尋問(「関東御尋」) 攘夷遅延に関する尋問だと思われます。実は、7月3日に慶徳が三条と内談した際、三条から幕府の攘夷遅延について強硬な意見が出されたようで、6日、慶徳は三条に書を送て、「威恩並行」するような「賢慮」を求めました。それに対し、三条は、賢慮の必要性は尤もで自分も同意であると返答していました。これを受けて、強硬な沙汰から「御尋」になったのでは・・・と想像しています。 ○国事掛 国事掛(=国事御用掛)は文久2年末に設置された朝廷の役職で、その職掌は国事の議論です。 関連:■開国開城:「大和行幸計画と「会薩−中川宮連合」による禁門(8.18)の政変」■テーマ別: 「大和行幸と禁門の政変」 「因幡藩文久3後半」■豆知識「国事御用掛、国事参政・寄人(当初)リスト」 参考:『維新史』三、『贈従一位池田慶徳公御伝記』一p402(2004.9.21, 2012.12.27) |
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